塾長つれづれ

 

しゃべるだけならあほでもできる

   田舎の喫茶店は、婆さん化した爺さんたちのたまり場である。テレビのワイドショーが垂れ流しているくだらない情報を、さも自分が考えたかのようにべらべらしゃべる。有名人にまつわる噂話から我が国の、ひいては世界の政治、経済まで、いっぱしの評論家気取りで、しゃべるは、しゃべるは。それも耳が悪いのだろう、大声で、傍若無人に。(年を取ると爺さんも婆さん化するのだなと痛感する。)テレビ情報が尽きたところで、いつものように近所の噂話へ。どこそこの誰それがどうしたこうした。(他人のことを云々する前に自分のことをしゃべれよと思う。自分には誇れるものは何もないことを知っているので、他人を蹴落とすことで、相対的優位に立とうとしているのだろうが。)ところが、皆が皆、自分の言いたいことをべらべらしゃべるばかりで、誰も相手の話は聞いていない。所詮、ワーワー、ワーワーと騒いでいるだけなのである。もっと知的な会話はできないのかとつくづく思う。

   英語の会話も同じことである。24時間365日英語圏に住めばだれでも日常会話なら英語が話せるようになる。日本の小学生が日本語で日常会話しているように、英語圏の小学生は英語で日常会話をしているのに過ぎないのである。しかし、知的な会話となると話は別である。日本語であれ、英語であれ、論理的思考力なくしては知的な会話はできない。あほではできないのである。

   これからのグローバル社会では英語が話せることが重要とかで、大学入試に英語4技能が取り入れられようとしている。(とりあえずは頓挫したが、やがてほとぼりが冷めれば、またむくむくと頭をもたげてくるだろう。)英語をしゃべれるようにというなら、英語圏に住めば誰でもしゃべれるようになる。ただし、上記の婆さん化した爺さんの程度であるが。

大学入試に英語が必須項目とされているのは、大学で英語の日常会話をするためではない。大学での真理の研究には、英文の海外学術文献が読めることが必要だからである。大学入試に英語4技能を求めるのがそもそもの筋違いなのである。

   また、最近、インドやフィリピン等他のアジア諸国の人たちに比べて、日本人が中高大と何年も英語を勉強しながら英語がしゃべれないことを恥であるかのごとき論調が日本中を席捲しているが、我々日本人が日本で生活するのには英語が必要ないからしゃべれないだけなのである。英語をしゃべる必要がなく生活ができるのは、恥であるどころか、恵まれていることの証左なのである。(インドにせよ、香港にせよ、フィリピンにせよ、英語を流暢にしゃべることのできる国は、米英の植民地化という不幸な過去をかかえているのであって、日本は戦後一時的に連合国の占領下にはあったものの、幸いにも米英の植民地になることはなく、英語の公用語化を避けることができた幸運な国なのである。)

 これに関していえば、近年、文科省の指示で、中高の各学校にALTというネイティブ英語を話す外国人補助教員が派遣されるようになっているが、筆者はこれらALTの知的水準については疑いをもっている。欧米人が自分の仕事を求めるのはどこよりも欧米内であって、よほどの物好きでもなければ好き好んでユーラシア大陸の極東のさらに東の島国である日本まで来ることはないであろう。ましてや日本の中でも東京ならまだしも、香川の片田舎まで来るはずがない。職にあぶれた欧米人が、日本人の白人コンプレックスを良いことに、飯のタネにしているだけなのではないか。ネイティブといっても、所詮は日常会話しか教えることのできない知的レベルの人たちかも知れない。日本でいえばFラン大学卒程度の、あるいはそもそも大学を出たかすら怪しい人たちから、ネイティブだからということだけで後生大事に有難がって英会話を「教わって」いるのかも知れないのである。

2019.11.13

 

 

もっともらしいことを言う人にご用心

   週末の早朝ラジオに耳を傾けていると、大体が○○教の時間とかで、もっともらしく人の道を説く番組が聞こえてくる。いわく、「親に孝行、兄弟仲良く」「友達を大切に」「他人には親切に」「世界に平和を」等々。どれもこれも反論のしようもない立派なことばかり。では、この番組を提供している○○教の幹部はどうやって生活しているのだろうか。おそらくはお布施と称する信者から巻き上げた金で優雅な生活をしているのであろう。要するに、自分のことは棚に上げて、もっともらしいことを言うことで金儲けをしているだけなのである。

  今回の英語4技能論も同じことだ。いわく、「これからのグローバル社会を生き抜くには、今や世界の共通語になっている英語が読めて、書けて、聴けて、話せなければならない。」

  お説ごもっともである。誰も反論できない。(実は、この文の主語は「グローバル企業関係者」なのだが、巧妙に「日本人一般」にすり替えている。)だが、これを大学入試の要件とすると金儲けの話になる。大学入試の要件に英語4技能を持ち込もうとしているのが、文科省の役人と民間英語検定業者と政治家。これほど怪しい組み合わせはないではないか。だれも反論できないようなもっともなことを言って、金儲けをたくらんでいるのである。寄ってたかって受験生を食い物にしようとする悪い奴らである。

2019.11.13

 

 

大学入試に英語4技能は本当に必要か

        ー民間試験導入延期に思うー

  20年度からの大学入試への英語の民間試験結果の導入が延期になった。1年かけて再検討し24年度からの導入を目指すという。筆者は、大学入試に民間試験の結果を使うことには反対であることは勿論のこと、そもそも大学入試において英語の4技能(読む、書く、聞く、話す)を重視するという発想自体を疑問に思っているので、以下に筆者の考えを記してみたい。

  そもそも大学とは何をするところなのか、世の中の多くの人は誤解しているのである。実際、多くの人は、大学は学生が最終的に社会に出ていくための準備をするところ(大卒の学歴を得るところ)程度に思っているし、実態を見ればその通りなのだが、本当は違うのである。教育基本法第7条には、大学の目的がちゃんと書いてある。

  第七条 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

  2 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。

  簡単にいえば、「真理の探究とそのための教育研究」ということになろう。各大学は、この目的を達成するために教育研究を行っている(ことになっている)のだが、英語に関していえば、この目的のどこから4技能といわれるものが出てくるのだろうか。

 教育研究のためには外国の先進的な学術文献の研究が必要不可欠だから、英語を読む・書くは絶対的に必要だろうが、聞く・話すはできないよりはできた方がいい程度のことなのである。実際、現在の1000以上ある大学の教員の内、何人がまともに英語が話せるだろうか、怪しいものである。日常会話程度ではなく、学術研究の上で必要な英語が不自由なく話せる教員などまずほとんどいないだろう。何のことはない。「真理の探究とそのための教育研究」ができる限り、それで足りるのである(かつてノーベル賞受賞者の益川教授が私は英語が全くできませんと言われたことがある。おそらくは謙遜されているのだろうが、しかし、英会話ができなければノーベル賞が取れないということはないのは確かだろう)。にもかかわらず、大学入試に限って、英語の4技能を求めるのが筋違いなのである。

  大学入試の英語に民間試験業者が実施する試験の結果を反映させようという施策は、英語の4技能のうち、特に話すを試験しているのが現状では民間試験業者だけであることに目を付け、大学入試の英語に4技能を持ち込むことによって、民間試験業者を儲けさせ、文科省の役人はそこに天下りして甘い汁を吸い、政治家がこれらから献金をもらって潤うという、受験生を寄ってたかって食い物にする「三方一万両得の悪巧み」なのである。文科大臣の「身の丈」発言もあって、とりあえず20年度からの導入は延期になったが、そのうち世間の批判のほとぼりが冷めれば、またぞろ形を変えて頭をもたげてくるのだろう。要注意である。

  ところで、中高生に英語を教えている筆者が言うのもなんだが、日本で生活していくのに英語、特に英会話が必要な人などどれだけいるだろう。仕事上どうしても英会話ができることが必要な人はいるかも知れないが、せいぜい1000人に1人でないか。少し考えればわかることだが、英会話などできなくても日本での日常生活に何の不自由もないのである。

 それなのに、どうして文系にせよ理系にせよほとんどの大学入試に英語が必須の受験科目になっているのだろうか。筆者が思うに、それは、大学の目的である「真理の探究とそのための教育研究」のためには、論理的思考力が何より必要であり、この論理的思考力の有無を測るのには国語だけでなく、英語という外国語を通して測ることが非常に役に立つからである。

  試しに、大学受験生に英語の長文を和訳させてみると、その生徒の論理的思考力の程度がすぐにわかる。日本語としてとうてい成り立ち得ないような和訳もどきをして平気でいる生徒をよく見かける。英語の文の構造を軽視して単語ばかり追いかけ、あとは「フィーリング」とやらで適当に和訳もどきをするのである。論理的思考力が欠けているのである。

 このような訳の分からない和訳もどきをする生徒は、大体が筆者のいう過去問丸暗記のエセ塾で「学んで」きた生徒である。中間・期末試験対策と称する過去問丸暗記と酒池肉林の預言者からの霊験あらたかな預言(予想問題)に頼っているうちに、本来持ち合わせているはずの僅かな論理的思考力さえも奪われてしまった可哀想な生徒たちなのである。

  筆者としては、どんな生徒も、程度の差はあるにせよ、それなりに論理的思考力を持ち合わせていると考えているので、過去問丸暗記のエセ塾の逆を行き、英文の11文を論理的に解釈して正しく理解できるよう、日々生徒の論理的思考力の養成に努めている。

 嗚呼哀れ 食われ食われて Fランへ

 2019.11.3

 

 

文科省と英語産業の悪巧みを勝ち抜くには

1 三方一万両得の悪巧み

 昨今、大学入試改革が声高に叫ばれ、特に英語について、センター試験に代えて英検、GTEC等の民間事業者が実施する試験の結果を大学入試判定に導入することが言われているが、筆者は、この流れは、文科省の役人が天下り先確保のために民間試験事業者(及びそれにつながった政治家たち)と結託して行う悪巧みと見ている。

 文科省の役人たちが天下り先を探す中で、英検、TOEFL、TOEIC等の英語産業が繁栄していることに目を付け、これらの英語産業に大学入試の仕事の一部を回すことで自分たちの再就職先にしようとし、一方英語産業側としては、従来からの民間試験だけでなく、従来のセンター試験に代わるものとして毎年数十万人が自分達の試験を受けてくれることで莫大な利益が得られることになる。また、この両者の間には、金に目ざとい政治家たちが群がるという、いわば「三方一万両得」の実に「美味しい」制度が導入されようとしているのである(試験料は試験業者によって5000円~25000円位まで幅があるようだが、ざっと平均1万円(≒英検S-CBT準1/GTEC-CBT)とすると、1万円×50万人×2回=100億円。これに多くの下級生も練習のために受験するであろうから、全体でざっと100数十億円の利権である。しかもこれが毎年毎年である。こんな美味しいものはない)。民間試験事業者の中には、B社のように高校側とも結託して試験対策問題集の販売や模擬試験の開催によっても利益を得ようという利益相反の双方代理のようなことさえ平気でやろうとしているものもある。試験機関が自分の試験の受験対策で金儲けをしようとしているのに文科省も見て見ぬふりをしている。さぞや大勢の天下りを受け入れてもらうのだろう。結局、受験生の親たちが彼ら天下りを養うことになるのである。実に酷いものである。

 最近の報道によれば、一部の大学人たちからの反対はあるようだが、どうせこのまま実施されるのであろう。なぜなら、文科省の役人にしても、政治家にしても、あるいはマスコミにしても、彼らの子弟や孫たちは、AOだの推薦だのといった裏口入学で大学に入るのだから、一般入試のやり方などどうでもいいのである。センター試験があろうがなかろうが、どうでもいいのである。(※萩生田文科大臣が10月24日にテレビ番組の中で「(受験生は)自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえれば」と発言したようだが、これこそ彼らの本音なのだろう。要するに、「下級国民が民間試験を受けられようが受けられまいが、それを受ける必要のない我々上級国民の子や孫には関係ない。下々が何を騒いでいるのだ、身の程をわきまえろ。」という気持ちなのだろう。)

 しかし、心ある大学人たちは忸怩たる思いなのであろう。実際に東大や京大等の国立大学では、国から運営交付金を貰っている手前、英語の民間試験導入に全く反対とはできないものの、文科省対策として形だけ民間試験を取り入れたことにして評価において実質的に無視することで骨抜きを図ろうとしている。

2 悪巧みをどう勝ち抜くか

 大学入試における英語の民間試験の取り扱いについてはまだ予断を許さないが、生徒たちの中には不安になって英検やGTECの対策本に走っている者も多いし、高校の教師たち自体が盛んと不安をあおっている。

 しかし、筆者としては、今回の英語の民間試験導入は、所詮は国公立大でいえば1次試験レベル、私立大でいえば中堅以下のレベルの話であって、国立大学の2次試験や難関私立大の一般入試においては、従来通り、英文読解能力が重視されることに変わりはないと考えている。いやむしろ、民間事業者の試験内容では大学における海外学術文献の研究に役立たない分、自らが行う入試での英文読解能力を従来以上に重視することとなるだろう。

 そこで当塾では文科省と英語産業と政治家たちによる悪巧みの流れに敢えて逆らい、国立大学の2次試験や難関私立大の一般入試に対応できるよう英文読解能力を高めるため、Skypeを使ってインターネットによる英語(英文法、英文解釈)の授業を行うこととした。全国どこからでも1対1の完全個別指導が受けられるし、授業時間も柔軟に対応できる。国立大学の2次試験や難関私立大の一般入試を目指して受験勉強を始めようという生徒諸君の受講を期待している。詳しくは→こちら

2019.10.20

10.28 ※部分を加筆

11.1  英語の民間試験導入は2024年度まで延期になった。まあ、当然だろう。英語産業に天下り先ができると喜んでいた文科省のあほ役人の顔が見たいものだ。仕方なく、今度は今まで以上にFラン大学を増設して天下りしていくのだろうが、そういうあほ大学に行きたい人は行けばいい。過去問丸暗記のエセ塾がますます繁栄するのは、困ったものだが。

 

 

 

当たり、当たり、また当たり!!そしてFランへ。

 (怪しい預言者の跋扈する世界)

   学習塾の業界には、学校内で定期的に実施される中間・期末試験はもとより校内模試までも、出題される問題を予想して見事に的中させる能力に優れた預言者がいるという。そういう預言者のいる塾にはその予想問題を手に入れようと入塾希望者が引きも切らないらしい。どうやらそういう預言者は、筆者のような凡人には想像もできないような超能力があるらしく、校内定期試験前になると今回はこういう問題が出るぞという神様からのお告げがあるらしい(実のところは、超能力どころか、非常に俗物的な力による酒池肉林の世界からのお告げなのだろうが。筆者などは、塾業界に身を置いて5年半になるが、一度もそのような神様からのお告げを受けたことがない。まだまだ修行が足りないのだろう。

   ただ、不思議なのは、そのような霊験あらたかな預言者であっても、神様からのお告げがあるのはあくまで校内の定期試験だけであって、国公立大学の入試問題についてはお告げがないらしい。しかも、そのような霊力は学習塾業界に入ってから生まれるらしく、当該預言者自身の大学入試の頃にはまだ預言力が付いてなかったのだろう、自らは大した学校へは行っていない。どうせなら、自分が受験生の頃にその預言力を使って東大2次試験の問題を予想すればよかったのに(とは言っても、問題を解く能力はないから、問題が予めわかったところで解けないだろうが)。

   さて、校内での内申評価を上げようと、預言者から頂く霊験あらたかな予想問題に頼っている生徒に忠告しておこう。このようなことをやっていると、君が本来もっているささやかな思考力ですらだんだんと失われていき、やがては預言なくしては試験が受けられない状態になるだろう。その先に待っているのは、入試本番で今まで見たことのない問題を前にして、何をどう解いたらいいのかさっぱりわからないバンザイ状態であり、当然ながらの不合格である。そして、その先は、お定まりの大手予備校への(お金の)「運び屋さん」経由Fラン行きになるのである。

   筆者は、このような預言者ではないし、預言者になりたいとも思わないので、石川東大塾に来ても校内定期試験の予想問題を手に入れることはできないが、当塾では、校内定期試験であれ、校外模試であれ、そして大学入試本番であれ、いかなる問題が出されても自分の力で解ききるだけの学力をきちんと養成しているので、最終的に大学入試を一般入試で勝ち抜きたいと思う生徒諸君は、是非当塾へ来て、勉強してもらいたい。我々も全力で応えよう。

預言者の 嬉しいお告げ Fランへ

 2019.3.26

 

 

嬉しい報告

 今日、高3の塾生から嬉しい報告があった。慶応義塾大学法学部法律学科と上智大学法学部法律学科の両方に一般合格したのである。私立大学の定員管理の厳格化と入試制度多様化による一般入試合格枠絞込みの中で、①我が国私立大学最上位の両大学に、②一般入試で、しかも③現役で合格するというのは本当に至難のことだが、それを達成したのだから、大したものであり、筆者としてもこの上ない喜びである。

 推薦入試だのAO入試だのといった今流行りの裏道街道には一切目もくれず、御天道様の下、正々堂々と一般入試で慶応大法と上智大法の合格をもぎ取るのだから、痛快この上ない。

 彼いわく、「石川塾で基本の大切さを徹底的にたたき込まれたお蔭です」。指導者として、これ以上の有難く指導者冥利に尽きる言葉はない。彼には、勿論持って生まれた才能はあったが、それ以上に感心するのは、筆者や妻からの指導内容を素直に聞き入れる素直な性格と、我々の指導の通りに実践する意志の強さである。

 どんなに才能に恵まれたとしても、この人の指導を受けると決めた優れた指導者の指導を素直に聞き入れ、その指導に沿って努力する強い意志がなければ何事においても大成しないことは、勉強に限らず、スポーツ等の他の分野をみても、分かることである。

 これから先も、彼はきっと努力を続け、必ずや、我が国の将来を背負っていく逸材になっていくものと確信している。

2019.2.21

 

 

医学部合格の方法

  最近、当塾への問合せで多いのは、子供を医師にしたいのだが、どうすればよいかという相談である。我が子3人を国立大学医学部医学科へ進学させた塾長夫婦からすれば、子供のことを他人に相談する前に、親自身が今から述べる医学部受験生の親たるに相応しいものをもっているかを考えたほうがいいと思うのだが、勘違いな親に限って色々と聞いてくるものである。いちいち答えるのも面倒なので、以下に医学部合格のための提要を書くことにする。

  結論から言おう。カネかコネかアタマである。

 

 1 私立医科大

  これは、はっきり言って、アタマではない。カネかコネか、その両方である。よく考えてみればわかるのだが、私立医科大は、大学ではあるが、何より私企業である。私立医科大に合格させるということは、近い将来、自分の病院で医師として働かせることになる者を採用予約しているようなものである。

   一般に、私企業が新入社員の採用試験を勉強だけで公平にやっているところなど、日本中のどこを探してもないだろう。ほとんどは、コネ採用である。コネ採用ではどうしても足らない場合のみが、一般試験による採用である。

 私立医科大も基本的には同じなのである。コネである。ただ、一般の会社と異なるのは、新入社員に当たる医師国家試験合格者の養成だけでなく、大学病院の経営に莫大な金がかかることである。カネ(寄付金)である。つまり、大学が欲しいのは、コネがあってカネがある生徒である。カネの額はコネとの関連で決まっていく。強いコネをもつ生徒は、カネは比較的少なくてよい。コネがない生徒は、数億必要と考えたほうがよい。

  とは言いながら、私立医科大も大学である。国からの補助金(私立学校振興助成金)も欲しい。そのためには、一応公平な入試を実施している体裁は整えなければならない。だから、一般入試を行う。一般入試は定員の何十倍もの生徒が受験してくれるので、受験料収入も魅力である。一般入試といっても、他の私大学部と違って、医学部入試には「面接」というものがあるから、コネ・カネが活躍できる。面接でもどうしてもひっくり返すことができないほどの学力試験の上位者には、カネにはならないが仕方なく一応合格は打つ。でも、大丈夫である。彼らは、国公立大学医学部医学科のすべり止めで私立医科大を受けているだけだから、ほとんどは、入学を辞退する。補欠合格を打っておいたコネ・カネ受験者を優先繰り上げすればよいだけである。

  以上が、私立医科大入試の実態である。こんな不公平はけしからん、補助金を止めろなどと批判することは、簡単である。しかし、毎年の医師国家試験合格者の4割近くを生産している私立医科大の経営が傾いて困るのは、結局国民なのだから、不公平も仕方ないと諦めるしかないのだろう。一般国民ができることは、私立医科大卒のやぶ医者には、できるだけかからないことくらいだろう。

 

2 国公立医大

  国公立医学部医学科の場合は、推薦入試はコネ、一般入試はアタマである。

  もともと、税金で設立・運営している国公立大学医学部医学科の入試は、一般入試しかなかった。筆者が、大学受験をした1972年当時は戦後の高度経済成長が曲がり角に差し掛かっていたものの、依然として東大を出て官庁や大企業に就職するのがエリート街道であったので、筆者のような文系は勿論、理系の高偏差値受験生もみな東大を目指していたものである。また、昭和50年代半ばまでには、ほぼ各県1校の国公立大医学部が設置されることとなったため、国公立大学医学部も今ほど難関ではなかったのである。しかし、その後の我が国経済の低迷と緊縮国家財政から役人も大企業サラリーマンもそれまでの「うまみ」が削られ、魅力が薄らいできたため、理系の高偏差値受験生は、こぞって東大より医学部を目指すようになってきた。

 その結果、現在では、国公立大学医学部医学科の一般入試に合格するのは至難のこととなっており、東京や大阪の超高偏差値受験生たちが、全国を股にかけて地方国公立大医学部の受験に赴くのである。逆に言えば、学力以外のカネ・コネが入ることなく、公平、公正に入試がなされている証拠であるともいえよう。

  ところがである。いつの頃からか国公立大学医学部医学科の入試に推薦入試が導入され、その上数年前からは、地方における医師不足の解消策と称して、地域枠制度なるものまで導入されることとなった。聞こえは良い。「一発の学力試験では測れない総合的能力を見る」とか、「卒業後地元にとどまって地域医療に貢献してくれる者を優先的に確保する」とか。しかし、本当のところは、コネ入学を制度的に認めたのではないかというのが、筆者の勘繰りである。医師の世界は、外からは分からないが、非常に狭い社会らしい。逆に言えば、コネ、コネ社会なのである。医師になってからは仕方のないことだが、せめて税金で医師を養成する機関である国公立大学医学部医学科の入試くらいは公平・公正であって欲しい。筆者が、推薦入試と地域枠制度の廃止を願う所以である。

 なお、国公立大学医学部医学科の入試にカネは関係ないと思いたい(賄賂罪が適用になる)が、本当のところは分からない。

  ということで、国公立大学医学部医学科に一般入試で合格するためには、絶対的にアタマが必要である。田舎の国公立医学部でさえ、センター試験で5教科7科目で最低でも総合85パーセント以上、できれば9割以上欲しいところだ(ちなみに、全国でも最低ランクの香川大学医学部医学科の場合総合85パーセント以上)。

 センター総合9割以上とるには何が必要であろうか。まず、国語と社会はどうしても点が伸びにくいので、これらの不足分をカバーするには、数学2科目と理科のうち少なくとも1科目は満点、理科のもう1科目と英語は95パーセント以上とることを目指さなければならない。また、非常に時間制限の厳しいセンター試験本番で総合9割以上とるためには、普段から100パーセントではなく120パーセントとれるように力をつけておかねばならない。さもないと、この試験で決まるという極度の緊張状態の中では誰でも100パーセントの力は出ないものなのである。

 センター総合85パーセント以上とれなかったけれど2次で逆転する?絶対ないとは言わないが、まず無理。わずか定員60~70人のイスを争っているに、その程度の能力で、精緻な解答能力をもったライバル達をどうやって逆転するというのか。

 

以上、筆者が医学部受験の提要と考えるところを述べたが、結局のところ、以前のブロブでも書いたように、多くの正直な貧乏人にとっては、「カネなしコネなし勉強しかなし」なのである

 自分の子供が医学部を目指すというなら、親自身にも覚悟が必要であるし、国公立大学医学部を目指すならアタマが必要なのである。鳶が鷹を生むことはないのである。

2019.2.11

 

 

○○は、うつるということ

Few people realize the extent to which our minds are developed or retarded by conversation. ... Most of all do we learn from contact with men of eminence, from men who have silenced us with their wisdom and wit.  And just as our wits are sharpened by such contact, so are they blunted by our talk with the prejudiced and dense.(C.N.Parkinson)

2019.2.1

 

石川東大塾は過激なブログで有名らしい

  最近さる筋から、K1高界隈では、石川東大塾は筆者の記する塾長つれづれの内容が過激だとかで知られているらしいと聞かされた。心外である。筆者にすれば、当たり前のことを書いているだけで、別に過激でも何でもない。よくある炎上商法をやっているわけではないので、何もわざと過激なことを書いて注目を浴びようなどという気はさらさらないし、誰かを個人的に攻撃して日常の憂さを晴らそうとしている訳でもない。

 筆者としては、40年以上ぶりに故郷にUターンして、地域の子供達に大学受験、高校受験対策を指導する中で、自らの受験経験と東京で我が子3人を国立大医学部医学科に進学させる過程で身に付けた受験指導を故郷でも実践しようにも、母校であるK1高の現状のあまりの酷さに呆れて、これではどうしようもないとの気持ちから、自然に吐露した内容を正直に記述しているのに過ぎない。

 だいたい石川東大塾のブログは過激だなどと寝ぼけたことを言っている者は、三観地域のクラス分けテストに過ぎない高校受験でk1高に受かったことで浮かれている阿呆であろう。今のk1高は、とても進学校とは呼べない、ただの普通科高校に過ぎない。筆者の頃とは違い、もともと少ない上澄みすら丸高へ抜けてしまった残りが通うk1高の中で、理数科か文特か知らないが、SSHの毛ばりに釣られて東京研修だのアメリカ研修だのと特別扱いされたことに浮かれて間違ったエリート意識を持った身の程知らずの受験生がこのような寝言を言っているのだろうが(或いは、自らの低レベルがばれるのが怖くて、対岸から吠えているのだろうが)、当塾を批判するなら、自ら東大、京大、国公立大学医学部医学科の一般入試(推薦入試などという怪しい入試ではない)で合格してからにしてもらいたい。これらの大学はおろか、筆者の頃は普通にあった旧帝大すらほとんど一般合格できないような知的レベルの者に、当塾を云々する資格はない。k1高の上位でいるからとうぬぼれている生徒は、一度当塾で体験授業を受けてみればいい。君の客観的レベルがいかに低いかを教えてあげよう。 どうせこのままいけば入試に落ちて、自分の低レベルを知るのである。自分の無知を知るのは、早ければ早い方がいい。これからは本当の勉強をしなければ、という気になれる。

 筆者のブログのが過激だなどと寝ぼけたことを言っているレベルの生徒では、とてもではないが東大や京大、国公立大医学部医学科の一般入試は勝ち抜けない。

東京の高偏差値の受験生は、元々優秀な上に、まさに死ぬほど勉強しているのである。筆者の医学部3人娘の受験時代もそうだった。大学受験は、こういう生徒達と戦わねばならないのである

 まあ、名前だけ書いてお金を払い込めば誰でも合格が貰えるあほ大学に行って、将来とも親の庇護の下で親が金を使って開拓した就職先にまるで自分の力で就職したかのような顔をして就き、じじばばがうどんをすすりながらため込んだお金で買い与えた高級車を乗り回しながら、当地でのんびりと生きていこうという低レベルの連中には当塾はそのように見えるのだろうが、当塾としてはそういう生徒ははっきり言って相手にしていない。

 人生は自分で切り開いてこそ価値があるのである。親といえども他人が敷いたレールの上を走って、何が楽しい。何の刺激もない田舎で、親と同じように自分のことは棚に上げて他人の詮索ばかりしながら知的レベルの低い生活を送り生きて死んでいって、何が楽しかろう。当塾としては、自分の将来は親には頼らず自分で切り開こうとういう考えをもった生徒を相手にしたい。

 残念ながら、当地にはそのような進取の気概をもった生徒はほとんどいないので、新校舎建設の負担もあり、塾経営は正直、火の車である。しかし、幸いなことに、塾長夫婦の我が子3人は皆、国立大医学部医学科を卒業して医師として活躍中なので、手も金も一切かからない。夫婦の生活費は、少ないながらもこれまでの蓄えと都会のサラリーマンが命を削って納めてくれる年金のおかげで、何とかやっていけている。受験指導を標榜するのに自らがどこの大学を出たかも明らかにできないような恥ずかしい学歴の怪しい他塾のエセ講師たちが、家族を養うために嘘八百を並びたてて生徒獲得に走らないといけないのとは、訳が違うのである。

 塾長夫婦としては、三観地域の中高生に純粋に賢くなって欲しいと思っているから、少数ながら我々を信じて通ってきてくれている生徒を相手に、毎日全力で指導している。だから、授業が終わったあとは、二人とも毎日放心状態である。

 中高生諸君。よーく考えてみよう。本気で受験を勝ち抜こうと考えるなら、わざわざ大枚はたいて本当の入試というものを知らないエセ講師が行う授業と称する漫談に付き合ったり、思考停止促進器である映像を前に居眠りして時間を潰している暇はないのである。馬に食わせる程の過去問の暗記を強要されて、元々わずかしか持っていない思考力すら奪われ、頭すかっからかんになって、結果、入試で失敗するのがオチである。本当の勉強がしたいと思う生徒には是非我が塾の扉を叩いて自分の頭で考える癖を付けて思考力を養って欲しい。当塾も全力で応えよう。そうでない生徒は、他塾経由Fランへ行けばいい。

本当の 入試を知れば こそカゲキ

2019. 1.21

 

 

開業6年目に入っての今後の抱負

 平成25年10月にiCS石川東大塾を開業して丸5年が過ぎた。東京での公務員生活を勇退して故郷にUターンしての開業であり、当初は多少なりとも戸惑いがあったが、ようやく少ないながらも通ってくれる生徒もつき、それなりに充実した毎日であるが、これを機に現在の大学入試制度の問題と今後の抱負について述べてみたい。

 開業してまず驚いたのが、現在の大学入試制度の多様化と称する裏道街道の多さである。筆者が大学受験をした昭和47年当時は、私立大学はいざ知らず(なぜなら筆者は東大しか受験していないから当時の私大入試のことは知らない)、国公立大学の入試は今でいう一般入試しかなく、一発勝負の学力試験で全てが決まっていたのであるが、今の大学入試では、特に私立大学の場合、一般入試以外の、公募推薦や指定校推薦だのAO入試だのといった、ほとんど或いはまったく学力試験を受けない入試が幅をきかせており、入学者の6割近くがこれらのいわば正規の裏口入学によって入学しているし、公立大学では20数パーセント、国立大学ですら10数パーセントは推薦入試(さすがに指定校推薦はないと思うが)によって入学しているのである。

 このような学力試験がほとんど或いはまったく課されない試験では、大学による学力試験が全く行われない指定校推薦は勿論のこと、公募推薦やAO入試等においても、的水準の低い受験生が、世間知らずの大学の入試担当官を相手に、いわばハッタリを効かせて合格を得る可能性が高いのであって、就職試験ならいざ知らず、大学入試にこのような制度を採用するのはあほ学生を大量生産しているだけであって、非常に問題である。少子化の中で私企業として生き残りをかける私立大学がこのような制度を採用しているのは、ある意味止むを得ない面があるのかも知れないが、それもこれも文部官僚を食わせるために少子化にも拘わらず私立大学・学部を大量増設したからであって、学問の府としての大学全体の価値を損ねているとしか言えない。

 それでも私立大学はその程度のものと世間も思っているからまだいい。問題は、国民の税金で運営されている国公立大学である。前述のように国公立大学の入試にも推薦入試という名の正規の裏口入学が認められているのは、どうかと思う。特に高偏差値の受験生がわずかの合格定員を目指して激闘を繰り広げている国公立大学医学部医学科の入試において推薦入試×地域枠という怪しさ2乗の制度が堂々と行われているのは、地域医療の担い手である医師の確保策という面はあるにせよ、税金で成り立つ国立大学の入試制度としては遺憾でしかない(ちなみに筆者の医学部3人娘は、すべて正々堂々一般入試で合格を勝ち取っている。)。

 また、近年では、東大や京大ですら推薦入試が採用されるに至っている。東大の場合、入学定員約3,000人のうちの最大100人程度とされているようだが、おそらくは最高偏差値レベルの受験生を国公立大医学部やMIT等の海外の有名大に奪われての窮余の策として推薦入試制度を採用したのであろうが、難しい東大の2次試験を受けることなく、センター試験8割程度の学力(神戸大工学部レベル)の受験生が、面接で試験官に特技をアッピールして東大合格というのも、どうかなと思う。

 東大からすれば、100人の中に1人でも2人でも本当の天才がいれば儲けものくらいのことだろうが、残りの99人~98人が食った定員分が減らされるせいで、学力は上回っているのに一般入試で不合格になった生徒からすれば、どうなのだろうか。そもそも、本当の天才なら東大の一般入試など苦も無く合格するだろうに。まさか、東大関係者が自分や文科省の縁故者を合格させるために、このような制度を持ち込んだということはないのだろうが(私立医科大の例があるから、疑いたくもなる。)。いずれにしても、このような目的に対する効果の怪しい制度を、大学組織運営の基本たる入試制度に採用するなどということは、「腐っても鯛」の天下の東大のすることではないと思う。筆者をはじめ、心ある東大OBの中にはこの制度を苦々しく思っている人も多いのではないか。裏口も制度にしてしまえば正門になってしまうのだが、所詮は第2正門である。

 かつて千葉大学が飛び級入学などという制度で「優秀な」受験生を獲得しようとしたことがあるが、さしたる効果も生まれていないと聞く。東大の推薦入試1期生が来年度末に社会へ出ていくことになるが、どのような効果が得られるのか、或いはまったく得られないのか。まあ、いずれは廃止される運命にあるのではないか。というか、廃止されるべきである。

 大学入試、特に税金で運営されている国公立大の入試には、何より公平性が求められる。筆者は、国公立大の入試は一般入試一本にすべきであると思っている。

 さて、現在の大学入試制度には以上のような問題があるが、受験生を預かる身としては、現行の制度を前提にしつつも、大学は一般入試で合格してこそ本当の合格と考えているので、生徒に一般入試で合格できるだけの学力を付けてあげるのが、大学受験指導を標榜する当塾の使命であると考えている。

 御多分に漏れず少子化の進む三観地域で、しかも、筆者の頃とは異なり、少数ながら比較的高偏差値の生徒は丸高へ行ってしまう中で、どうすれば大学入試の指導実績を残すことができるか、日夜思案している。時間はかかるであろうが、筆者としては、いつの日か母校東大の一般入試に教え子を合格させたいと考えている。問題は、日々衰えていくのであろう筆者の脳細胞がその日まで持ち堪えられるかどうかである(笑)。

いつの日か 一般入試で 東大に

2019. 1.21

 

   

恐れていたことが現実に

    …ノーキン支配の行き着く所

  四国新聞1121日付け朝刊は次のように報じている。

  「日本学生野球協会は20日に開いた審査室会議で高校15件などの処分を決めた。県内では、部員への暴力などで観音寺第一の監督(52)が1031日から3カ月間の謹慎処分を受けた。同校によると、青野監督は今年5月から8月にかけて12年生6人に対し、指導の中で頭をたたいたり、暴言を吐くなどした。1030日に学校側が把握し、翌日から監督は指導を自粛している。」

  今回処分を受けた高校15件のうち監督等指導者の不祥事は11件であるが、公立普通科高校は観一以外はおそらく2件しかない。つまり、観一野球部は甲子園をめざす全国約3800校のうちでも公立普通科高校のワースト3に入るという前代未聞の不祥事をしでかしたのである。甲子園など出たこともない弱小野球部のくせして、監督による暴力などという、まるで甲子園強豪校並みの不祥事を起こすことだけは一丁前である。我が母校がこんな形で全国に有名になるとは、何とも情けない思いである。

  野球部の監督が部員の生徒に暴力行為をはたらくのは、優越的立場を利用した卑劣な行為であって、教師としてはもちろん人間として決して許されない。観一の野球部監督は教員でもあるのだから、教育活動の一環である部活動の指導中に暴力行為をはたらいた以上、監督業の謹慎だけではなく、教育公務員として免職を含む厳しい懲戒処分が課されなければならない。まさか、年度末の異動で他校へこっそりと移して、何事もなかったかのように振る舞うなどというお茶濁しは決して許されない。

   弱い立場の生徒に暴力をふるって支配するなどという呆れた行為をするのは、もちろん監督本人の資質に原因があるのだろうが、同時に、このような人間を野球部監督に置き、教壇に立たせてきた(社会科教諭らしい)観一高当局の責任も厳しく問われなければならない。

  筆者が常々指摘しているように、いやしくも観一高が地域一番の普通科進学校を自認するなら、多くの生徒は勉強で大学を目指さなければならないのだから、何より勉強優先の学校生活を送らせるべきであるのに、実態は真逆であって、運動ばかりさせて頭すっからかんの生徒を量産しているのである。そしてそこでは、自らは勉強などしたことのないノーキン教師が、税金から給料を貰いながら推薦をエサに生徒を思うがままに支配して、おいしい生活を送っているのである。

  観一では今春から新しい校長先生が来られており、聞くところ現校長先生は体育教師ではないようなので、校長先生には是非観一の積年の膿を出し切ってもらい、普通科進学校らしい高校に作り直して頂きたい。その意味では、仮に今回の野球部の不祥事を観一高自らが隠すことなく上部機関にオープンに報告したのであれば、むしろ改革への第一歩として評価すべきものである。(余談だが、そういえば、今夏の県大会で観一が間違って勝ち進んだ際、3回戦以降は授業を優先して応援バスは許可しなかったそうで、アホな生徒は「今度の校長先生は厳しすぎる」などと寝ぼけたことを言っていたが、筆者からすれば校長先生の判断は当然であって、むしろ応援バスなどという野球部を特別扱いして甘やかすこと自体を廃止するべきである。)

  それにしても、このようなどうしようもない人間をわざわざ野球部監督にし、教壇に立たせてきたのは一体誰なんだ、責任者出てこいと言いたいところだ。

 2018.11.22 

 

11.27 追記 今日の報道によると、春夏甲子園7回優勝の常連校であるお隣愛媛県の松山商業高校で、やはり野球部部長による部員への暴力行為が明らかになったとのこと。観一高野球部の監督はこういうところだけは松商の真似をするのである。情けない。 

 

12.07 追記 今日の報道によると、大相撲の貴ノ岩が付け人に暴行したとして引退に追い込まれたとのこと。優越的地位を利用して抵抗できない相手に暴行を働いた行為という点で、どこかの行為とよく似ていると思うが、関係者はどう見るのだろうか。

 

2019.4.4 追記  大山鳴動して鼠一匹も出ず。結局、皆が我が身可愛さで保身に走り、何事もなかったかの如くである。可哀想なのは、勇気を出して告発した生徒達。これから犯人捜しが始まるのだろう。

 

 

医学部入試で女性差別って?

 文科省の局長が息子を東京医科大に合格させてもらうために文科省が実施する事業での選定に当たって東京医科大に便宜を図ったとかで逮捕された事件に端を発して、東京医科大をはじめ多くの私立医科大が入試において女性や多浪生を不当に不利に扱っていたとして大騒ぎになっている。

 筆者などは、私立の医科大が入試を公正にやっていると考える方が甘いのであって、こんなことはずっと古くから行われてきたと考えるべきだと思う。

 今でも覚えているのだが、昭和47年の3月、筆者は東大の二次試験を受けるため、東京本郷の宿に宿泊していた。部屋は数人が泊まれる和室の相部屋だったが、たまたま当日は筆者の他は1人だけだった。食事時間も決められているため、必然的に彼と話をするようになったのだが、彼は北海道出身の1浪生で私立の医大を何校か受けているとのことだった。彼いわく「私立の医大は寄付金が5,000万はかかるから、僕みたいなサラリーマンの子供は合格するのは難しいんだ」。筆者「そうだろうなあ。でも、頑張ってね。」

 あれからほぼ半世紀たった今でも、彼の言葉とその時の寂しそうな彼の顔が筆者の脳裏にこびりついている。当時の5,000万円といえば、今の数億円だろうが、その数字が当たっていたかどうかは別として、サラリーマンには一生かけても払えないような高額な寄付金が入試の合否を左右していたのは間違いないだろう。そうでなければ、町医者のあほ息子が代々必ず医者になって繁盛し続けるなどということはあり得ないことである。

 今回の事件後の報道では、男子の現役受験生には一律に加点し、女子受験生や多浪生には一律減点をしていたことが問題になっているが、筆者などは、表面的な加点減点よりも、寄付金の額によって合否が左右されているのではないかということこそ問題にするべきと思うのだが、不思議と報道されない。文科省も調べようとはせず、メディアも問題にしない。おそらくは特定の関係者がいい思いをしているからだろう。

 それ以上に筆者が気になるのは、事は私立医大だけだろうかということである。筆者から見れば憲法に定める法の下の平等原則に疑いのある国公立大学医学部医学科入試における「地域枠」制度とその運用こそ問題にするべきである。(詳しくは → こちら「地域枠」制度は受験生の出身校という本人に何ら責任のないことを理由に合否において堂々と差別している上、そこに「推薦入試」という更に怪しい制度を絡ませて、怪しさこれ以上ない制度を作り上げている。この超怪しい制度を利用して、特定の関係者がいい思いをしているのではないかという疑念が筆者の頭から離れないのである。国立大学が法人化して経営の自由度が増したことと引き換えに、様々な誘惑や利権が渦巻いているのではないか。東京地検が「医学部合格=賄賂」と認定するくらいだから、医学部合格が利権の対象となっているのではないかとの疑念が拭い去れないのである。

 世の中は不条理に満ちているのは、百も承知だが、せめて税金で運営している国公立大学の入試くらいは、公平、公正にやって欲しいものである。

 

正直者は

カネなし コネなし 勉強しかなし

 2018.1031

 

 

指定校推薦の闇

 現在の大学入試では、特に私立大学を中心に、公募推薦、AO入試、指定校推薦等ほとんど或いは全く学力試験を課さない入試が幅を利かせており、私立大学の入学者の約6割はまともな学力試験を受けていない。しかも、そのほとんどはいわゆるFラン大学という行く価値のない大学であって、割り算も満足にできない学生を粗製乱造しているのである(そして、その先には1時間800円の非正規雇用が見えている)。受験生当人が希望し、保護者も納得しているのだから、他人がとやかく言う筋合いはないのであるが、何とも情けない時代になったものである。

 ところで、上記の試験の中で、唯一高校サイドが主導権を握っているのが指定校推薦である。大学サイドがあらかじめ学部学科と人数を指定して高校サイドに推薦を依頼するもので、高校から推薦された生徒はよほどのことがない限り合格が貰える。事実上、高校内での選考が大学入試に等しい制度である。大学からすれば一定数の定員を経費をかけずに満たすことができる、生徒からすれば睡眠時間を削って勉強し合格できるかどうか怪しい一般入試を受けなくて大学に行ける、そして高校からすれば進路指導の手間が省けるという三方一両「得」のよくできた制度である(もちろん皮肉である)。その多くはあまり人気のない大学や学部学科から募集があるのだが、中にはK1高のように歴史と伝統のある高校の場合には、もちろん年によって異なるが、東京のMARCHや関西の関関同立あたりからも募集があるようである。うまくすれば早慶クラスからもあるらしい。現在のK1高の生徒の学力からすれば高値の花であるような大学からの募集である。これらは筆者を含めK1高の諸先輩が一般入試で貢献してきたからこそのK1高の評価であることに現役の生徒達は感謝しなければならない。

 とは言うものの、問題はその運用である。校内選考が本当に客観的に公明正大に成績だけで行われているかということである。成績以外の要素が加味されていないのかどうか。さらに言えば、あってはならないことだが大人の事情が加わっていないのかどうか。何せ校内選考過程が全く見えず、全てがブラックボックスなのが気になるのである。事務作業の都合は分かるが、募集の公告が超短期間で写メも不可という。3年生全体に周知する気が本当にあるのか、有名大の場合特定の関係者にあらかじめ決まっているのではないかと疑いたくなるのである。学力以外の要素、例えば部活動の実績等も評価の対象なのかも知れないが、それにしても「何で彼があんな良い大学に」と思われる例も過去にはあったと聞く。

 以上があらぬ誤解であることを望むのだが、制度的には、校内選考が一般入試と同じ価値を持つ事実上の大学入試なのだから、何より公明正大にやってほしいものである。

正門を 通らず裏から 入る人

2018.9.20

 

 

ノーキン指導者は何故ダメなのか

 昨今、アマチュアスポーツ界における不祥事(特に暴力やパワハラ)がマスコミを賑わせている。アメフト、レスリング、体操、大学駅伝部等々、枚挙にいとまがない。おそらくこれらは氷山の一角に過ぎないだろう。これらのアマチュアスポーツ界では、現役時代に競技者として名をなした人がそのまま指導者になり、やがてその競技団体の幹部に成り上がっている。競技団体の幹部になれない者も多くは学校の体育教師になって、生徒を「指導」している。彼らに共通しているのは、そのほとんどがノーキン(「脳みそ筋肉」の略で、文字通り、脳みそが筋肉でできているかのようなスポーツ馬鹿を揶揄していう言葉)であることである。

 ノーキンが指導者になると、結果的に少しは生徒の競技力が伸びるという利点もあろうが、実は取返しのつかない欠点のほうが多いのである。我が国では、中学校の部活動からスポーツを始めることが多く、1年中一つの競技だけをやり続けるので、指導者である顧問の体育教師の言うことが絶対的なものとして子供の脳に刷り込まれていき、その教師による精神的パワハラはもちろん、場合によっては物理的暴力すら抵抗できないものとしてまかり通っており、生徒の心身に取返しのつかない被害をもたらしているのである。

 筆者は、ノーキンは競技者としてはともかく、指導者としては不適であると考えている。それは、彼らには大体において本能しかなく、理性が欠けているか、あったとしても鈍麻しているからである。「本能」は人間を含めあらゆる動物が持っているもので、何より生存本能から始まり、できれば他より良い生存がしたい、他を支配したいという欲求(物欲、名声欲も含め)につながる。これを達成するために、他に恐怖を与え(場合によっては攻撃を加え)支配していく。他方、「理性」は人間だけが持っているもので、何が正しく何が正しくないか、何をやってよく何をやってはいけないかを判断する能力、簡単に言えば、善悪の判断力のことである。

 ノーキンの競技者は、自分自身の指導者から勝利というアメと、言うことを聞かないと無視(メンバー落ち)やひどい場合はビンタを食らわすというムチ(おだてと恐怖)で育てられてきているため、自分が指導者になった場合も理性で生徒を説得するということができない。また、ノーキンが組織の幹部となった場合には、被害はその組織全体に及ぶ。というのは、どの組織にもその幹部には一定の権限が与えられるが、その権限はあくまで組織全体の利益のために正しく行使される前提で委託されるいわば神聖なものなのだが、ノーキンには理性が欠如鈍麻しているから、それが理解できず、権限は自分に与えられた私物と思ってしまい、自分の物欲、名誉欲を満たすために権限乱用をおかすことを何とも思わないのである。

 本来、生徒を指導するとは、その生徒が将来自分の力で生きていくことができるように、必要な知識、技能を授け、アドバイスをするものであって、生徒の心身に暴力を加える(精神的パワハラや物理的暴力)などどいうことはあってはならないものなのである。また、組織の幹部は、その権限を組織全体の利益のために行使できるよう、常に理性でもって自己を律しなければならないのである。

 ところが、日本の学校現場には当たり前のごとくノーキンの体育教師がのさばっている。その教師本人にとっては、好きな運動をやりながら給料を貰うことができ(生存本応を満たし)、生徒を思うがままに支配して(支配欲を満たし)、あわよくば学校組織や競技団体の幹部となって権勢をふるう(物欲、名声欲まで満たす)ことができる、これほどいいことはないのだろうが、そこに通う生徒からすればたまったものではない。

 ノーキンは、体育教師(スポーツを通じて生徒を教育する者)といえども、本来教育を行う場である学校にはふさわしくないのである。体育も教育である以上、本能だけでなく理性も身に付けた者が行わねばならない。でなければ、生徒の心身に取返しのつかない傷を残すことになる。

 ところが、現在の体育教師の養成組織である体育大学の入学基準は運動成績が何より大事であり、英国数など主要教科の成績はほとんど無視されている。私立の体育大学はもとより、国公立大学の体育学部においてもしかりである。これでは本能だけでなく理性も持った体育教師ができるわけがない。たとえ私立大学であっても、教師を養成する以上、少しは勉強をしたことがある者(せめてセンター試験合計で平均点6割以上とれる者)を入学させるべきである(逆にセンター試験で平均点すら取れないような者が「教師」として生徒を「教育」していることが不思議である)。となると、ノーキン連中は全員不合格になるだろうし、それで学校現場も少しはまともになるだろう。

 なのに、オリンピック、オリンピックと浮かれる今の我が国の学校現場では、何より運動優先が現状であり、以上のことは実現できない年寄のたわごとにしか聞こえないのが残念である。

ノーキンは 理性がなくても 「教育者」

2018.9.20

 

 ノーキン増産は県の政策の結果だった

 東京から40年以上振りに故郷へUターンして中高生に進学指導を始めてちょうど5年になるが、この間に一番驚いたことは、筆者の母校であるK1高における進学実績の落ち込みと運動優先思想のまん延である。そして、この二つは密接に関連しているのである。
 まず、K1高の進学実績の落ち込みについて、筆者が大学受験した昭和47年は、筆者の記憶では、現役だけで、東大には筆者を含め3人合格したし、他に少なくとも京大が2人、阪大が2人いたと思う。東北大や神戸大や名大もいた。現在のK1高の主流である岡山大や香川大もそれなりにいたと思うが、記憶に残らない程度の低評価だった。ところが、現在のK1高では、せいぜいが広島大、岡山大、香川大クラスで、旧帝大クラスは数年かけてパラ~リパラ~リいる程度である(それもほとんどが浪人である)。残りの生徒は浪人かFラン大行きなのである。当時の生徒数は約400人で現在は約250人だから、単純な比較は出来ないが、それにしても現在の進学実績は悪すぎる。
 筆者なりに原因を考えてみるに、何より、少ないながらも旧帝大クラスの有名大に進んだ者がほとんど地元には戻らず、他県に移り住んでしまうことが大きい。
筆者の同級生でも旧帝大クラスを卒業した者は、県庁職員か教師になった者以外はほとんど地元に残っていない。大卒で香川県に残っているのは、駅弁大学(センター試験6割程度で合格できる各県1校の田舎大学)と揶揄される香川大学卒が主流である。親の頭がそれなりなら、子や孫の頭もそれなりになるのは当然である。(県全体の進学実績でみても、丸亀以西の高校の落込みが激しく、高松地区の落込みはそうでもないと言われているが、高松には転勤族の子弟の生徒が多いから、彼らが何とか実績を確保しているのであって、地元出身の生徒は、やはりそれなりなのである。)

 話が逸れるが、頭がそれなりの親は、我が子の入試が控えるようになると、自分自身が本当の大学受験というものを知らないから、全国が相手である大学入試を三観地域のクラス分けでしかないK1高入試の延長程度と考え、皆が行くからと、講師の学歴すら明らかにできない怪しい塾の門を叩き、カモとなって大枚貢いだ結果、やはりそれなりで終わるのである。

 もう一つの原因と考えられるのが、1993年に香川、徳島両県で開催された東四国国体を期に実施された体育教師の大量採用である。それ以前は国体成績万年最下位グループだった香川県が、開催県のプライドから天皇杯を取らんがために、全国からスポーツ選手を集めたのである。その多くは国体の度に都道府県を渡り歩くジプシー選手なので、国体が終われば勝手に他県に移るのだから放っておけばいいものを、当時の香川県の教育委員会は国体の好成績に浮かれて、「夢よしばし続け」とばかりに必死に引き止め、その方策として、中学高校の体育教師の100人規模の大量採用が行われたといわれている。その分、主要教科の教員採用が絞られたため、学校教育現場では文武両道の美名を大義名分にした運動優先思想がまん延していくこととなり、現在の学力低下につながっているのである。

 そういえば、筆者の高校時代には、体育教師は運動場の隅に追いやられて、いじいじと空威張りしていたものだが、現在では職員室の本丸で名実ともに威張っている。体育教師本人の人生はこれ以上ない幸せなものだが、もともとそれなりの頭の上に運動優先思想を叩き込まれた生徒にとってみれば、不運と言うしかない。Fラン大経由非正規労働者への道を体育教師の大量採用という県の政策が導いているのである。

宴後は みんな仲良く ノーキンに

2018.9.16

 

 

ポンキンカンも今は昔の物語

 ここ数年、私立大学の入学定員管理が厳しくなり、今春の入試の場合、定員の1.1倍を超える学生を入学させると補助金がカットされるとかで、東京や大阪の偏差値上位大学の一般入試の合格者数が絞られたようだ。その結果、東京圏でいえば早慶上理→GMARCH→日東駒専→大東亜帝国、大阪圏でいえば関関同立→産近甲龍→摂神追桃というように(以上は巷間言われている偏差値順位であって、筆者は信用していないが)、偏差値上位校から下位校へ合格者が押し出されたと言われている。簡単に言えば、以前なら合格できたのに今年は合格できなかったというのである。確かに、この傾向は2,3年前から生徒を指導していて筆者も実感していた。

 ただ、これはあくまで一般入試の話である。実は、今では、私立大学の入学者の6割は公募推薦だの指定校推薦だのといった推薦入試やAO入試などという、事実上ほとんど学力試験を受けていない生徒なのであって、残りの4割だけが一応学力試験を受けているに過ぎないのである(有名な慶応大学などの場合、学部によると一般入試組は3割だそうである)。

 そのような中で、入学定員管理の厳格化がすすめられるとどうなるか。ランク上位校は放っておいても入学偏差値が異様なほどに吊り上がってくれて受験者数が増え受験料で稼げるからホクホクである。一方で、学生集めに苦労している下位校は、もっとホクホクである。何せ、私立大学の約半数は定員割れで苦しんでいいるところに、上位校から勝手に生徒が流れてきてくれるのだから。特に、いわゆるFラン大学ばかりの地方私立大学の場合、以前なら都市部の大学に合格できたであろう生徒達が、涙を呑んで流れてきてくれるのである。こんなおいしい話はない。まさに「地方創生は大学から」なのである。このようにして無駄に粗製乱造した多くの私立大学を護送船団方式で食わせていき、そこに文部官僚が天下って高給を食むという、実によくできたストーリーなのである。

 ただ、唯一の被害者がいることを、関係者は知っていながら無視している。それは、もちろん以前なら東京、大阪のそれなりの大学に合格できたであろう生徒達である。一応の有名大学卒になれたはずが、彼らはFラン大学卒→非正規一直線になるのである。一方で、6割の推薦やAOなどという怪しい入試で合格していった学生は、当該有名大学卒を名乗れるというこの不合理。どんな制度も一長一短ではあるものの、このような制度(ちゃんとした学力試験をやらずに生徒を入学させてアホ大学生を大量生産する制度)を作って運用していることを、今の大人達は将来の日本を背負う彼らに責任をとれるのだろうか。

 ちなみに、1973年以前の入学定員管理の基準は、7倍だったという。筆者が、大学受験をしたのが1972年であるから、ちょうどそのころまでの私立大学に合格していた生徒の7人のうちの6人は、今なら不合格だったわけである。そういえば、当時は、受験すれば誰でも合格できる大学のことを揶揄して、ポンキンカン(近所の婆さんの言葉を借りれば「校門の辺りでにこにこ笑いよったら入れてくれる大学」)と呼んでいた記憶があるが、今やポンキンカンも高嶺の花である。親がポンキンカン卒だからといって、その子はとてもポンキンカンにすら入れない時代なのである。

ポンキンカン 今は高嶺の ポンキンカン

2018.4.8

 

 

大学合格実績が物語るものーその2

 先ずは次の表をご覧頂きたい。

   

国公立大合格者数比較 

高校

現役A

浪人B

現浪計C

学年

定員D

A/C

%

A/D%

C/D%

入試年度

香川

 

観音寺一

51

40

91

250

56.0

20.4

36.4

H29

丸亀

138

46

192

280

71.8

49.2

68.5

H29

高松桜井

81

22

103

280

78.6

28.9

36.7

H2729の平均

三木

 

48

10

58

150

82.7

32.0

38.6

H27

愛媛

 

今治西

186

22

208

320

89.4

58.1

65.0

H29

松山南

252

14

266

360

94.7

70.0

73.8

H28

松山北

170

13

183

360

92.8

47.2

50.8

H29

八幡浜

76

6

82

160

92.6

47.5

51.2

H28

宇和島東

84

3

87

160

96.5

52.5

54.3

H29

 

 ※香川・愛媛両県のうちから偏差値的に観音寺一高の前後近くにあると思われる高校を抜粋したうえで、各高校のホームページを参考にして筆者が作成。

 

 一見してわかることは、観一高の国公立大合格者に占める現役率の低さ56.0%=浪人率の高さである(ちなみに国立大に限ると現38浪36で現役率51.3%とさらに低くなる)。国公立大合格者のうち2人に1人は浪人である。他の高校は、丸高の71.8%から宇和島東高の96.5%まで幅はあるが圧倒的に現役率が高い。もちろん、国公立大合格といっても内容はピンキリだが、この点でも観一高が他より優れているわけではまったくない。東大京大国公立大医学部は勿論のこと、その他の旧帝大ですらほとんどいない。多くは地元近辺の地方国公立大(いわゆる駅弁大学)である。その程度の国公立大に合格するのですら、2人に1人は浪人しないと合格できないのである。これらの浪人生は勿論現役時代の自分の勉強不足に主たる原因があることは言うをまたないが、しかし、考えようによっては、現在の観一高の教育力の低さ(運動ばかりさせて、まともに勉強させる風潮がない)の被害者である側面もあるといえるだろう。仮に他校並みにちゃんと教育指導を受けていたなら浪人せずに済んだかも知れないのである。費用に換算するなら、伝え聞くところによると大手予備校に授業料・寮費合わせて1人年間約200万円払うそうだが、200万×36人=7200万円が、勿論観一高補習科から合格した者もいるだろうからそれを除くとしても、まあ少なく見積もっても数千万円が、本来払う必要のない費用だったわけである。

 ただ、希望は少ないがないことはない。学年定員の占める現浪合わせた合格者の割合(C/D)は、現状36.4%とこれも最低だが、筆者が以前から言っているように、仮に定員を100人減らして150人としたとすれば60.6%と他の進学校に引けを取らない成績になる。

 塾業界では「自称進学校」と揶揄される観一高が本当の意味で「進学校」になるためには、先ずは、運動中心のゆるーい校風を早急に改めて勉強中心の校風を作ることが何より必要であるし、これは観一高の教職員がその気になればかなりの部分はすぐできることである。以下は邪推であればよいのだが、現在の観一の主要教科を担当する教員のほとんどは高松高校や丸亀高校の出身者であろうが、本当は母校で教鞭をとりたかったのに香川の西の果てに島流しにあったなどと被害者根性で仕方なく(体育教師にへーこらしながら)授業をするのではなく、自分の力で観一を本当の進学校にして見せるぐらいの気概が欲しいところだ。

 もう一つは、入学定員の問題である。地元の反対、教職員組合の反対等、定員を減らすことに対しては色々難しい事情はあろうが、運動中心で楽しく観一生活が送れればいいというこの何とも言えないゆるーい校風を改めるためには、生徒の大半が勉強優先の高校生活が送れるよう定員の大幅な削減という荒療治が不可欠であると思う。高校生活を楽しく遊んで過ごして、Fラン大学へ進み、最終的に非正規労働者へまっしぐらでは可哀想なのは結局生徒自身なのであるから、彼らをちゃんと教育する責任がある大人達こそが考えるべきことである。

K1高 余計な1年 200万

2018.1.17

 

 

Fラン大学進学の罠

 今やK1高卒業生の多くが進学していると思われるいわゆるFラン大学(ボーダーフリー、すなわち名前を書いてお金を納めれば誰でも即合格が貰える大学)であるが、その罠の怖さをほとんどの生徒は勿論、保護者も理解していない。

 4年制大学進学率が2割に乗るかどうかだった筆者の大学受験の頃にもいわゆる3流大学はたくさんあったのだが、何せ大卒が少なかったことと、労働法制が今と違い非正規雇用(アルバイト、契約社員等の有期雇用=使用者の都合で簡単に労働者をクビにできる雇用)を厳格に制限していたので、3流大卒といえども高卒よりは希少価値があったため、正社員(「期間を定めない雇用」=簡単にはクビにできない雇用)であることは勿論のこと、各自それなりに恵まれた就職をしていたのである。     

 ところが、バブル経済崩壊後の長期不況に加え、国民がその劇場型パフォーマンスに踊った小泉内閣以降、労働法制が使用者有利=労働者不利に変更されたことにより、今や労働市場では非正規雇用が普通のこととなっている。その上、今では就職希望者の2人に1人は大卒の時代であるから、大卒でもちゃんとした企業に正社員で就職できるのは事実上一流大学卒に限られてきており、いわゆるFラン大学卒の場合、正社員で就職しようと思えば悪名高いブラック企業(労働者を搾取の対象としてしか考えていない企業)ぐらいしかなく、ほとんどは時給いくらの非正規労働者として社会に放り出されているのである。

 非正規雇用の場合、労働者は将来のための必要な教育訓練を受けることもなくその労働をわずかの賃金を引き換えに使用者に売り渡しているだけであり、たとえ運よく雇用が更新されてきたとしても、常にその有期雇用の期間の終了とともに雇止めされる可能性がある非常に不安定な雇用なのである。

 大枚はたいて子供を大学へやった挙句が時給800円の非正規労働者では保護者は報われないが、悲しいかなこれが現実である。

 晴れてK1高へ進学して楽しく運動に惚けた結果Fラン大学へ進み、その4年後には非正規雇用の罠が待ち構えているのである。そういう生徒は、むしろ実業系の高校へ進み就職に有利な資格を身に付けた方がまだましなのだが、筆者の見るところ、「大学名より高校名」という土地柄から、多くの保護者が子供をK1高に入れることだけに執着してしまっているようである。

 我が子がK1高の制服に身を包み、毎日楽しそうに通学しているのを見るのは、親として誇らしいことかも知れないが、22才時点の我が子の姿を想像してみることも必要だろう。さもなければ、何年か後には、自分のわずかの年金にいい年をした我が子が巣喰うことになりかねないのである。

 部に惚け Fラン経由 非正規へ

2017.12.12

 

 

大学合格実績が物語るもの

 K1高のホームページに過去3か年(27年~29年)の大学合格実績が掲載されている。重複カウントされる私大は参考にならないので、国公立大学の欄をみると、国公立大合計で144(内過年度48)→102(34)→91(40)、国立大で112(内過年度40)→80(28)→74(36)である(各年の卒業生は約250人)。高校の教育力がわかる現役合格に絞ると、国公立大96→68→51、国立大72(内旧帝大6)→52(1)→38(1)である。体育教師が元気になればなるぼど、進学実績が悪くなる(The more vigorous PE teachers , the worse the results of entrance exams .)の典型である。

   それにしてもちょっと運動のし過ぎだろう。普通科の進学校のはずなのに、いくら運動が楽しいからといって、勉強から逃げて運動に明け暮れていると、3年の総体開けには自分の置かれた客観的位置に愕然とすることになる。

 運動ではなく勉強で大学へ行こうとするなら、何よりも勉強優先で日々こつこつと勉強していくしかない。 運動は、大学へ入れば嫌というほどできるのだから。

 運動に 浸って楽し Fランへ

2017.4.30

 

 

K1高の定員は多すぎる

 29年度の香川県立高校の一般入試出願数が確定した。塾長夫婦の母校であるK1高は、総定員251から自己推薦合格者13を除いた定員238に対し出願数253で、競争率は昨年と同じく1.06倍である。数字の上では15オーバーであるが、例年高専合格者が10人位抜けることを見込むと、実質的に不合格となるのはおそらく数名であろう。片や三観地域の成績優秀者が20人位目指すと思われるM高は34オーバーである。K1高受験生にとってはK1高が受かり易いのはめでたいことなのだが、しかし、筆者には、実はこのことが近年におけるK1高の大学入試成績の不振と密接に関係しているのではないかと思われるのである。

 思い起こせば筆者がK1高に入学した40数年前、定員は400であった。筆者の卒業したO中学は卒業者数約300 だったと記憶しているが、現在は約120である。三観地区の他の中学も同じような傾向であると仮定して単純に比例計算すれば、K1高の定員は150位でよいわけである。三観地区の成績トップ層約20人がM高へ抜け、成績次点層が約100人入ってきていると計算すると、何とK1高の1学年の半数近くの生徒が昔であればK1高へ入学できなかったであろう生徒達ということになってしまうのである(あくまで計算上である)。

 もちろん、県立高校の入学定員は単純に15才人口だけで決めるべきものではなく、当該地域における当該高校が果たしている役割を考慮の上で決めるべきことは十分承知しているが、それにしてもちょっと多すぎているのではないか。その上、K1高に入った途端に、運動ではなく学業成績で大学を目指さなければならないはずのほとんどの生徒も、学校全体を支配する運動優先のゆるゆるの雰囲気の中で高校生活を送るのである。これで大学入試成績が良くなることを期待しても無理というものである。

 現に、近年では、卒業生数約250で国立大現役合格数はわずか約50である。それも旧帝大はほとんどなく、近県のローカル大学(いわゆる駅弁大学)ばかり。ほとんどの生徒は、筆者の頃には名前すら聞いたこともないような3流私大へ進むのである。卒業生の一人として、何とも情けない状況である。

 K1高卒の名前が三観地区で大きな価値を持っていることは認めても、いや、認めるからこそその価値をこれ以上下げないためにも、そろそろK1高の入学定員の削減について検討した方がいいのではないか。運動三昧の究極の楽しい高校生活を送って、大学はどこでも行ける所へ行けばいいという、およそ普通科の進学校という名に似つかわしくない風潮を改めるには、定員削減という荒療治しかないであろう。とは言うものの、卒業大学名よりも卒業高校名の方しか聞こえてこない地域柄からして、近い将来に高校進学予定の子供を抱えた父母達の反対はもちろんのこと、生徒定員削減→教職員数削減につながることから教職員からの反対も予想されるところであり、結局、今後もほとんど定員が減ることもなく、ずっと、この何とも言えないゆる~い雰囲気の高校生活が続いていくのであろう。客観的に見ればK1高の価値を下げているのに、何の手も打たれることもない。情けないことだ。

 最重要 大卒よりも 一高卒 (涙) 

2017.2.23

 3.8  追記  最終的に募集数=受験者数だった。はぁ~。

 

センター試験3日前に体育をやらせる高校って

 K1高ではセンター試験の3日前にもなって3年生に体育をやらせたそうな。生徒の将来を左右する重要な試験であるセンター試験を前に学校がしてやれることは、生徒が体調をこわすことなく無事に受験できるように配慮してやることぐらいしかないはずなのだが、なぜか今のK1高では逆の発想をするようだ。

 体育教師のように普段運動をやって鍛えている人間なら怪我もしにくいだろうが、毎日遅くまで勉強の日々を送ってきて体力も落ちているであろうセンター試験の受験生に、こんな時に急に運動をさせるとどんな事故が起こり得るか、想像力に欠けているとしか言いようがない。運動の後の汗で風邪をひかせたり、特にバレーボールなどやらせて下手して突き指でもしてペンが持てなくなったり、最悪腕を骨折させたりしたら誰が責任をとるのか。ひょっとして体育教師自身は、運動による推薦合格組で、センター試験を受けたこともないのかもしれないが、そのやり方に唯々諾々と従って止めようともしない3年の担任にも呆れる。要するに、生徒の受験よりも、上にへーこらすることの方が大事なのだろう。

 いずれにしても、ほとんどの生徒にとって人生で一番重要といってもいいぐらいの試験を前にこんなことをやらせるのである。自分自身の大学入試はもちろん、我が子3人の厳しい大学入試を経験してきた筆者にとって、今のK1高のやることは、およそ理解不能である。

 運動が 何より大事 K1高

2017.1.12

 

 

勉強しないで大学へ行く方法

 大学受験を指導している塾である当塾がいうのも何だが、高校生活を究極までエンジョして、まともに勉強しないで大学へ行く方法はある。

 その一つはもちろん、名前を書いて入学金を払えば即合格の3流大学(最近ではfree rank 大学→Fラン大学とか、金を払えば誰でも入れることから映画館大学などと呼ぶらしいが)に推薦で行くことである。このような大学は大学とは名ばかりの行くだけ無駄な大学なのだが、国からの補助金狙いの大学当局は、定員割れによる補助金の削減が怖いのでどんな生徒でもいいから一人でも多く入学してほしいのである。だいたい私立大学の半分以上、特に地方にある私立大のほとんどはこの類の大学である。こういう大学は、高校を卒業してさえすればいいので、3年間遊び呆けていても、お金さえあれば誰でも行ける。

 もう一つのまともに勉強しないで大学へ行く方法は、運動で成績を残して推薦で行くことである(成績を残さなくても名門私大に推薦で入る方法もあるが、これは大人の世界の話なので、ここでは触れない)。大学卒業後も、うまくすれば体育教師になって、(時には子供相手に人の道、人生などを説きつつ ー勉強をしたことのない人間が人の道を説くこと自体がお笑いなのだがー )給料をもらいながら楽しく運動を続けるという幸せな人生を送ることができる。こちらは、もちろんその運動の成績次第であるが、うまくいけば東の早稲田、西の関学などの有名私大を始め国公立大すら体育系学部なら行くことができる。それどころか、昨年から推薦入試が始まった東大ですらセンター試験8割程度の学力でもスポーツなど一芸入試のアピール次第では合格の可能性がないわけではない

 運動で大学を目指す生徒の高校生活は、まさに朝から晩まで運動漬けである。早暗いうちからの朝練の後は、学校の授業時間は疲労回復のための睡眠に充て、放課後は本格的練習(競技練習に筋トレ)を暗くなるまでやる(ナイター設備があれば夜10時位は普通)。これを365日×3年間、ほぼ毎日やるのである。勉強などというつまらないことをやっている時間はない。どういう競技を選ぶかも重要である。競技人口が多いメジャーな競技は人気がある分競争も激しく良い成績を残すことは難しいので、比較的競技人口の少ないマイナーな競技を選んで全国レベルの成績を残すことが狙い目である。まあ、いくら頭を使わないにせよ、このような生活を3年間やり通すことは考えようによっては大したものだが、本来勉強で大学進学を目指すべき普通科高校でやるべきことではない。体育科を持った高校や実業系の高校がやることである(まあ、今では普通科というのは、実業系の科ではないという程度の意味になっているから、どうでもいいことなのかもしれないが)。

 問題は、普通科高校であるにもかかわらず、その高校全体が、運動で大学を目指す生徒だけでなく、勉強で大学を目指すはずの生徒も巻き込んで運動漬けにしてしまうことである。運動で頭も体もクタクタにして、何も考えない頭すっからかんの生徒を量産してしまうことである。これほど運動漬けにしたところで、実際は、ほとんどの生徒は、運動で大学に行ける程の成績を残すことはできず、高3の総体の県予選で1回戦負け、2回戦負けして引退した後は、本来の勉強で大学を目指すしかなくなるのだが、その時点で全国の大学受験生の中における自分の位置の低さに気が付いた頃には、時すでに遅しなのである。結局は、第1グループと同じ3流大学へお金で行くことになるのである。

 更にもう1つの楽して大学へ行く方法は、馬に食わすほどの定期テストの過去問をくれる塾へ通って、その答えを丸覚えして内申点を稼ぎ、先生の覚えめでたく推薦合格を目指すことである。このような過去問丸覚え勉強の弊害は以前にも記したが、何より、ものを考えなくなること(思考力を失うこと)である。その上、このやり方は中毒性があるから、一度始めたら途中でやめることが怖くなり、結局最後までやめられなくなってしまう。こういう生徒は、自分では勉強しているつもりなのかもしれないが、はっきり言って、ただのあほ覚えである。まあ、中には指定校推薦を利用してまんまと大学に推薦合格していく者もあるかも知れないが、苦労して自分の頭で考える代わりに定期テストの過去問丸覚えで楽して推薦で大学へ行ってやろうと考えているようなスケベ根性の生徒は、大概において第1グループと同じ運命になるのである。

 以上のように、まともに勉強しないで大学へ入る方法もあるのだが、所詮はどれも裏ワザ(昔の人は、これを裏口入学と揶揄したものである。)の類であって、本来、大学を目指す高校生が採るべき方法ではない。ちゃんとした大学へ行きたいならば、一生懸命勉強をして、正々堂々と正門から(すなわち一般入試に合格して)大学へ入っていくべきなのである。そのためには、日々の勉強から自分の頭で考えて答えを出す癖を付けなければならない。筆者の願いとしては、三観地区一番の進学校としての歴史と伝統のあるK1高には、生徒に運動ばかりさせて自分の頭で考えさせなくするのではなく、ちゃんと正しい勉強をさせて、是非一般入試で合格できるように教育してもらいたい。まあ、体育教師ばかりが元気な今のK1高には無理だろうが。

   勉強を したこともなく 大学へ

2017.1.1

  

 

 

わざわざ不安にさせる進路指導って

  K1高では冬休み前に駆け込み的に3年生の進路指導のための3者面談が行われたようである。高3にもなって親子同伴の進路指導というのも何だかなあである(そもそも筆者などは、社会に出た経験もなく20代の若造のときから先生とよばれて自分が偉い人間だと錯覚して何十年というような人に自分の子供の進路を云々してほしくないのだが)が、まあ仕事だからやること自体はいいだろう。問題は、その時期と内容である。私立大の指定校推薦、公募推薦も終わり、国公立大の推薦入試も終わっって、あと3週間余りに迫ったセンター試験へ向けて一心不乱に勉強しているはずのこの時期になって、親子同伴で進路指導である。しかもその内容といえば、「滑り止めに私立大も志願しておきなさい」というのである。

 そもそも親まで呼びつけて指導するほど重要な面談なら、なぜ私立大の指定校推薦や公募推薦が始まるより前に設定しないのか。特に校内選考に通ればほぼ間違いなく合格の指定校推薦は、応募周知期間が非常に短期間になるので、募集されていることに気が付かない生徒もいるはずであるし、気が付いても考えがまとまらないうちに締め切られてしまう場合もあるだろう。このようなことが起こらないためにも、3者面談をやるなら、受験スケジュールから逆算して遅くとも2学期始めにやるべきなのである。ところが実際は、デカンショだの民謡踊りだのにさんざん浮かれさせているから、生徒にも親にも(おそらくはK1校自体にも)受験の受の字もないのである。受験スケジュールは自分でチェックしておくべきもので、学校が指導するほどのことではないというなら、なおさら、なぜ今頃になって親を呼びつけてまで指導するのか。

 指導の内容にも呆れる。国公立大が落ちたときのことを考えて滑り止めを用意しておけということくらいなら、生徒は言われなくても分かっているのである。それでも、自分が将来就きたい職業はもちろん家計のことも考えて、浪人覚悟で国公立大1本に絞って頑張っている生徒もいるのである。親も本人の希望のようにと考えているところに、担任や進路指導担当から滑り止めも用意しておくように言われると、本人以上に親の方が「来春我が子が行くところがなくなったら近所の手前恥ずかしい」と不安にかられて、ふらふらし始めるのである。センター試験3週間前にもなってこのような進路指導をするのは、遅すぎて害しかない。学校以外の社会へ出たこともなく教師の世界しか知らないような人間による進路指導など余計なお世話なのだが、どうしてもやるというのなら、例えば、1学期の期末試験終了後はいつもK杯という球技大会に学校全体が浮かれているが、このような時期にこそ3者面談をやって3年生の心を引き締めるべきなのである。

 3者面談といえば、中3生が同様に冬休み前に各校で行われた。こちらは、年明けから3月の公立校一般入試までの受験スケジュールを見据えて、絶好のタイミングで行われている。K1高の偉い先生方も、たまには中学校のやり方を勉強したらどうか。

 そもそもK1高の進路指導に方針というものはあるのだろうか。進路指導というものは、本来、生徒の能力、適性、希望に家庭の事情等も総合的考えて、生徒に最も適した進路をアドバイスするのが仕事であろう。筆者には、現在のK1高の進路指導は、どこでもいいから大学に送り込めばいいと考えているようにしか見えない。ひょっとして、大学進学率限りなく100%の高校=進学校と大真面目に誤解しているのかも知れない(あるいは、大学進学率が低いとあほ私大の経営が厳しくなるので、県教委ひいては文科省からお咎めがあるのかも。)。その結果、250人いる卒業生の大半が、行く価値もないような3流大に進学しているのである。こんな進路指導ならない方がましである。運動ばかりさせて頭すっからかんの何も考えない生徒を量産するのではなく、ちゃんと勉強させて賢い生徒にすることこそが、K1高がやるべき本来の進路指導なのである。まあ、今のK1高には無理だろうが。

 K1高の生徒諸君、君が自分の進路について相談するべき相手は、社会のことを何も知らない教師などではなく、社会の酸いも甘いも全部知り尽くした上で君の将来について一番心配してくれている自分の親なのである。

   世の中を 知らぬくせして 進路指導

2016.12.23

 

 

国公立大学の推薦入試って、誰のため?

  現在の大学入試には、私立大学はもちろん国公立大学においても一般入試と推薦入試(AO入試を含む。)がある。筆者が大学入試を受けた40数年前には私立大学には推薦入試もあったと思うが、少なくとも国公立大学には推薦入試などというものはなかった。高校3年間の勉強の成果が、11回限り(1期校と2期校の両方を受ける場合は2回)の今でいう一般入試で測られていたのである。

  国民の税金で運営される国公立大学の入試には、何より公平性が求められる。領土は狭く資源も少ない我が国が、戦後の荒廃から立ち上がり他の世界の先進諸国と伍して来ることができた大きな要因は、親の貧富にかかわらずすべての子供が教育を受ける機会を平等に与えられていたことで、出身に関わらず優秀な人材が育ち、卒業後は彼らが官民を問わずそれぞれの場所で活躍し、国を引っ張ってきたからである。現実には金持ちの親をもつ子供は、お金の力で有名私立大学に進むこともあったであろうが、少なくとも国公立大学の入試においては、入学試験の成績だけで合否が決定されるという公平性が担保されていたのである。貧しい家庭に生まれ育った子供でも、勉強を頑張って国公立大学を卒業できれば将来より良い生活を送るための道を切り開くことができるという、いわば「学歴民主主義」とでもいうべきものが制度的に保障されていたからこそ、我が国が先進国の仲間入りができたのである。貧しい農家のしかも分家の次男坊に生まれ、普通なら地元の高校を卒業した後は口減らしのために京阪神の工場の工員等に放り出されたであろう筆者が、これまでのところ人並み以上の生活が送れてきたのも、東大卒という学歴のお陰であることは疑いない。

  ところが、いつの頃からか国公立大学においても推薦入試の制度が導入され、現在では合格者のうち国立大学の16%、公立大学の26%が推薦合格である(2014年入試)。

 推薦入試の場合、たいてい高校からの内申書に小論文と面接で行われ、学力試験が課されることはほとんどない。その導入の表向きの理由は、学力試験の一発勝負では測り切れない受験生の総合的能力を多面的にみるということであろうが、筆者の疑念は、元々訳のわからない高校の内申評価を基礎に、このような試験官の主観(悪く言えば、恣意)に左右されやすい制度を私立大学だけでなく国公立大学にまで導入した理由は本当にそれだけだろうかということである。

 筆者の杞憂であればいいのだが、政治家、高級官僚、大学関係者、マスコミ、大企業経営者等我が国の支配的階層に属する特定の人達の子弟を優先的に国公立大学に入学させるために推薦入試の制度が導入された(あるいはそのように運用されている)ということはないのであろうか。かりそめにもそのようなことはあってはならないことなのだが、日々受験生たちが一般入試での合格を目標にけなげに頑張っているのを見ていると、一方で学力試験も受けることなく国公立大学入学を認められる生徒が存在することに何とも言えない違和感を感じ、たまにはそんな疑念も湧いてくるのである。筆者が、この制度を「正規の裏口入学」と呼ぶ所以である。

  もちろんどんな制度にも一長一短はあるものであって、完全な制度というはありえないのであるが、しかし税金で運営されるものは最低限公平なのもでなければならない。

 いっその事、このような公平性に疑問のある推薦入試の制度は廃止して一般入試一本にしてもらい、その大学を目指すすべての受験生が同じ試験問題を相手に公平に競う昔の制度に戻してもらいたいと思う。しかし、実際は、国公立大学医学部医学科をはじめ、昨年からは東大でも推薦入試の制度が導入されるなど、国公立大学の推薦入試は拡大されてきている(これに加えて、国公立大学医学部医学科入試には「地域枠」という明らかに公平性に疑問のある制度が導入されている。受験生なら誰でもが夢見る国公立大学医学部医学科の入試に、推薦入試×地域枠という怪しさこれ以上ない制度が堂々と導入されているのは、逆に見事としかいいようがない。)

 我が国を先進国に押し上げた大きな要因である「学歴民主主義」の最後の砦が崩壊の過程に入ってきているのではないか。残念でならない。

    裏口も 決めてしまえば 正門に

2016.1219

 

 

 

定期テストは何とかなるが実力テストはさっぱりな君へ

             -過去問丸覚えは麻薬みたいなもの-

  中間テストや期末テストは何とか解けるが、いざ実力テストや外模試となるとさっぱり解けないという生徒からの問合せがよくある。試しに体験授業をやってみると、知っている問題は物凄い勢いで書きなぐるが、知らない問題になるとピタッと筆が止まり、ただ茫然としている。さり気なく聞いてみると、決まって地元の有名塾に通っていると言う。要するに、普段から馬に食わすほどの定期テストの過去問を与えられて解答を覚えることを勧められているから、定期テストは何とかなっているが、既存の知識を使って自分の頭で考えて解答をひねり出すことをやっていないから、実力テストや外模試でちょっとひねられた問題に出くわすと、もう手も足も出ないのである。

  まあ、最近は国公立大医学部の地域枠をはじめ東大ですら推薦入学という名の正規の裏口入学が始まった位だから、ひょっとしたら定期テストの過去問を丸覚えして内申点を稼ぐのは、楽して大学へ行くための裏ワザなのかも知れないが、過去問丸覚え勉強などというのは一種の麻薬みたいなもので、一度いい思いをするとやめるにやめられなくなってしまう。やがては、知らず知らずのうちに本来持っているはずの思考力を奪われていき、肝心な一般入試に対応できる学力はつかないままになってしまうのである。そもそもが、過去問丸覚えであわよくば楽して推薦で大学へ行こうなどというスケベ根性の生徒は、大体において望み通りの推薦で3流私立大学で行くしかなくなるのである。

  当塾は一般入試で正々堂々と国公立大学に合格することを勧めているので、普段から時間がかかろうと自分の頭で考えて答えを導き出すよう指導している。定期テスト対策においてもじっくり問題を考えさせるようにしており、過去問を丸覚えさせるような指導はしていない。人生で一番記憶力が良い時期である10代の子供にとって過去問を丸覚えすることは、さほど難しいことではない。今まで解いたことのない問題を前に、持っている知識をフル動員して考えることの方が何倍も大変なのである。一日中考えても解けないこともよくある。しかし、自分の頭で考える習慣を身に付けることで徐々に賢くなっていき、一般入試に対応できる学力がついてくるのである。保護者は、我が子に本当の学力を付けさせたいなら、過去問を丸覚えさせて子供の思考力を奪うような塾に通わせるべきではないのである。

 人間、一生に一度位は他のすべてを犠牲にして勉強に打ち込む時期があるべきである。子供を甘やかせて育てて良いことは一つもない。一発勝負で高校3年間の勉強の成果が試される一般入試こそ、人間を精神的に鍛える一番よい機会なのである。それを乗り越えてきた者とそうでない者では、後々の人生で必ず出くわすことになる修羅場でのパワーに大きな違いが出るのである。

  実際、国立大医学部を卒業して既に医者として活躍している筆者の3人娘の一人によれば、推薦合格の一番の成功例である国立大医学部医学科の場合ですら、一般入試を経ないで推薦合格で入学してきた者は、やはり何かが欠けていることが多く、大学での勉学を進めていく中で同僚学生に実は推薦合格だったことがばれ、やっぱりなあという目で見られるというのである(中には、推薦で医学部に入ったものの、大学医学部での膨大な量の勉強についていけず、結局医師国家試験に合格できないまま消えていく者も結構多いらしく、現に中国地方のある国立大医学部ではこのことが問題化しているという。)。それはそうだろう。推薦合格者は、失敗したらそれまでの努力が水の泡になる恐怖と戦いながらセンター試験本番で9割以上をとるほどの学力を求められる医学部医学科の一般入試を受けていないのだから。

  というわけで、(例の仏壇仏具の宣伝調で)定期テストは何とかなるが実力テストはさっぱりな君は、iCS石川東大塾へ是非どうぞ~♪(笑)

   過去問を 覚えてばっちり あほ大へ

2016.12.01

 

 

  

勉強ができなかった人間が教える塾が繁栄する不思議

  勉強ができなかった人間が教える塾は決して自分の学歴を明らかにはしない。代わりに、自分の塾がいかに素晴らしいかを宣伝することに巧みである。それはそうだろう、自分の恥ずかしい学歴を明らかにすれば生徒が逃げていくのが必至だからだ。

  不思議なのは、そのような塾に可愛い我が子を通わせる保護者の心境である。塾でどのような「指導」とやらがされているかには関心がない。ただ、周りの友達が通っているからきっと良い塾なんだろう我が子を通わせる。そんなことで我が子が賢くなるならこんな簡単な子育てはない。子供を賢くさせたいなら、ちゃんとした指導者につけなければならない。競泳の平井コーチ、シンクロの井村コーチ、マラソンの小出監督、テニスのマイケルチャンコーチ等々、選手が素晴らしい成績をおさめる陰には必ず良い指導者がいるのである。

  友達がみなその塾へ行くから我が子も行かせるという考えでは、はっきり言って、親の学歴は越えられない。もちろん昔と違って親に経済力のある現在では、親が高卒だからといって子供も高卒ということはないだろう。一応名の通った大学(親の世代が名前を聞いたことがある大学)ではなく、校門の前でにこにこ笑っていれば入れてくれる大学(入学金を払えば誰でも行ける大学)に行くことになるということである。そうではなく、我が子にいい大学に行って欲しい、少なくとも自分の学歴を超えて欲しいと願う親なら、塾選びは慎重にしなければならない。講師の学歴も明らかにできないような塾など論外なのである。

  勉強ができなかった人間が教える(ふりをしている)塾は、自分自身まともな勉強をしたことがないから、「指導」とやらも無茶苦茶である。過去問を覚えろ。英語は単語がすべてだ。数学は解き方を覚えろ。等々。勉強ができた人間は、このような発想では決して勉強ができるようにならないことはみな知っている。はっきり言ってアホの勉強術である。

 英語は何より文の構造を理解することである。単語を覚えたところで、文の構造がわかっていないのでは話にならない。過去問はあくまで出題スタイルを経験してみるためのものであって、それ以上ではない。過去問を覚えたところで意味はない。数学は解き方を覚えるものではなく、自分の頭で考えて答えを導き出すものである。

  勉強ができなかった人間が勉強を教える塾に大枚はたいて通わせた結果が、「校門の前でにこにこ笑っていれば入れてくれる大学」では何とも情けないことだ。

    それなんな? 解けないくせに 子に教え?

 2016.11.20

 

 

「子供相手に人の道、人生などを説く男」の怪しさ

  塾業界にはいろいろ怪しい人間が跋扈している。中でも特に怪しいのは、かまやつひろしの歌ではないが「子供相手に人の道、人生などを説く男」である。自分自身まともな学歴もなく、まともな仕事をしたこともないくせに、否、だからこそ、いい金儲けと目を付けた学習塾という怪しい業界で無知な保護者を目くらましすることで成功すると、一躍、教育者気取りで「子供相手に人の道、人生などを説」き始めるのである。それも自分で考える頭があるわけではないから、ネットをサーフィンすれば無数に転がっている他人の言説の中から適当なものをまるで自分が考え出したかのごとく転用するのだが。

 しかし、少し考えてみればわかることなのだが、子供の教育というものは実に長い時間とお金のかかるものであって、その子に精一杯の教育を受けさせた上で、「一人前」になってやっと終わるものなのである。一介の塾講師の分際で偉そうに云々できるような簡単なことではないのである。(「一人前」というのは、今はやりのニートではなく、自分の働いて得た金で自分の衣食住を賄い且つ税金・保険料を納められることである。そういえば、この地域に在住する若者のうちどれだけが「一人前」になっているのか、怪しいものである。筆者の見るところ、この地では、いい年をして親元で同居して、親が作ったものを食べながら、親が買い与えた高級車を乗り回しているアホばかりである。)

  中高生を相手に偉そうに人の道を説くならば、自分の子供にちゃんとした教育を受けさせ「一人前」に育てあげてからにするべきである。何より自分自身まともな人生を歩んでからにするべきである。塾講師などという怪しい仕事に身を置いて無知な親から金をまきあげる日々を送りながら、人の道を説くなどというのは、実におこがましいことである。

    それなんな? 怪しきおのこ 道を説く

2016.11.20

 

 

 

「校門の前でにこにこ笑いよったら入れてくれる大学」って?

  世の中で田舎の婆さんほど口さがない人種はいない。寄る年波のせいで体力、知力ともすっかり衰えているにも関わらず、いやそれが故なおさらに、口ばかり達者で他人の悪口を言うことに何の恥じらいもない。

  曰く「うちの孫は勉強がようできるきんK1高へ行っきょんじゃ(鼻高々! 今のK1高のレベルの低さを知らない)。どこそこの孫はちょっとできかったんじゃなあ、T高へ行っきょるわ(勝ち誇った態度!)。」(そういう自分は女学校はおろか裁縫学校すら出ておらず、おまけに自分の子はそのできんかったT高よりさらに出来の悪い高校に行ったのだが。)

  さらに(わざと)ボケてくると、「うちの孫は勉強がようできたきんK1高から岡山大学へ行ったんじゃ。」(自分の子供は大学はおろか普通科高校すら行ってないくせに、大学ランキングについては何故か結構うるさい。その上、孫が実は推薦で行った「岡山の方の3流私立大学」がいつの間にか「岡山大学」になっている。詐欺商法として知られる「消防署の方から来ました→消防署から来ました」の転用だが、いくら厚かましくても、さすがに東京の方の大学→東京大学とは恥ずかしくて言えないし、といって地元の「香川大学」と言うと嘘がばれるので、近そうで遠く、地域の人がよく知らない岡山の方の大学→岡山大学がちょうどいいのである。この辺りの言葉の使い分けには意外と鋭い。)

  近所に浪人生がいたりするとこんな婆さんの格好の餌食になる。「どこそこの孫は大学に落ちたんじゃなあ。浪人しよるんで。来年はとおるとええきんどなあ。」(落ちれば面白いと思っているのが見え見え。)「あそこの孫が受けた大学は、昔は校門の前でにこにこ笑いよったら入れてくれると言よったのになあ。今は難しいんじゃろか。」(よほどのアホなんだろうという気持ちが見え見え。)

  筆者が大学入試を受けた当時4年制大学進学率はやっと20パーセントに乗ったところだったが、当時から名前を書いて入学金を払えば入学できる大学は少なからずあったと思うが、それを「校門の前でにこにこ笑いよったら入れてくれる大学」とは、さすが長い人生を生き抜いてきた婆さんらしいうまい表現ではある。今や大学進学率が50パーセントを超え、2人に1人は大学生になれる現在では、私立大学の多くが「推薦入学」という美名の下で「校門の前でにこにこ笑いよったら入れてくれる大学」になっていることは、さすがの婆さんも知らないだろう。いや実は知っているからこそ、自分の孫が校門の前でにこにこ笑って推薦入学で行った岡山の方のあほ私立大学がいつの間にか岡山大学になっているのかも知れない。何せ、嘘も大きな声で100回言っていれば本当になってしまうのが田舎なのである。

  こんな婆さんでも、都会のほとんどブラック企業に勤めながら過労死寸前のサラリーマンの皆さんが納めてくれる年金のおかげで食うことに困ることなく、先代が建てた住居費ただの家に住んで、言いたいことを言いながらのんびりと長生きできるのが田舎の恐ろしい所なのである。

    婆さんの 孫はうそ大 大威張り

  受験生諸君は、来年このような婆さんの餌食にならないためにも、今が我慢のしどころである。四の五の言わずに、しこしこ頑張るしかない。

 2016.11.10

  

 「大化元年創業」iCS石川東大塾へ是非どうぞ~

  東京ではあり得ないことだが、この地域では今でも時々セスナ機を使ったスピーカー音声による広告を聞かされる。曰く、「仏壇、仏具の御用命は、天保3年創業○○仏壇店へ是非どうぞ~♪」(と言っているようだ。)。この文句を何回となく聞かされる。(吉幾三の歌ではないが) 爺さんと婆さんがお金と数珠を握って空を拝んでいるこの地域には、ぴったりの広告である。何といってもこの広告のえぐい所は、「天保3年創業」と繰り返すところだ。いったい、「天保3年創業」て、誰がどうやって確認することができるのだろう。もちろんできるわけがない。「明治○年創業」なら、そういう店があったのかなかったのか、知っている人もいるかも知れないが、江戸時代も天保年間となると事実を知っている人はいない。かといって、例えば奈良時代「聖武○年」というと、いかにも嘘っぽい。というところで、「天保3年」はちょうどいいのである。

  要するに、嘘も100回言えば本当になるの良い例である。有名予備校は、東大合格○名、国公立大医学部合格○名などと、エセ合格実績を吹聴している(当地の有名塾も、規模は違うが似たようなようなことをやっている。)が、このような嘘も何回となく聞かされているうちに、信じ込んでしまうのが人間なのである。保護者の皆さんには、このようなエセ広告に惑わされず、数ある塾のうちで、本当に自分の子供の学力を伸ばしてくれるのはどこなのか、見抜く力をそろそろ付けてもらいたいものだ。

  ところが、過日たまたまテレビを見ていたら、この広告の上手をいく「天明元年創業」○○仏壇とあるコマーシャルが流れていて、思わず笑ってしまった。コマーシャルの表現ぶりの類似性をみても、仏の業界も塾の業界も、ともに怪しい業界であることがよくわかる。

    気を付けよう 仏も塾も うそばかり

 ということで、「大学受験指導の御用命は、『大化元年創業』iCS石川東大塾へ是非どうぞ~」(笑)。

2016.9.11

 

 

 人前で生徒を罵倒する○○な体育教師

 今日明日とK1高の文化祭が開かれているというので、見に行った。書道作品の中に塾生のものを見つけたりして、塾での様子とは違った生徒の一面が見えて楽しい。期待していなかったバザーのうどんも意外と美味しかった(単に空腹だったせい?)。

 今日の最後は、文化祭の花形、3年生による民謡踊り(女子)とデカンショ(男子)。ここで今のK1高を象徴するような光景を目撃してしまった。3年女子の2人が民謡踊りの集合時間に少し遅れたことで、担当の女性体育教師が、一般生徒や父兄はもちろん、我々のような卒業生や他の高校の生徒、来年以降にK1高を目指そうと見学に来ている中学生など大勢が見守る中で、何とラッパ式ハンドマイクを手に大声で当該生徒の名前を挙げて「反省しなさい!」と連呼していた。どうやら、この体育教師は、「人を褒めるのは大勢の前で、人を叱るのは個別に別室で」という指導方法の基本も知らないらしい。高校生活最後の文化祭で3年生女子だけが参加できる一生の思い出になるはずの民謡踊りがこらから始まろうとしているのに、自分の怒りにまかせて部外者も大勢いる前でマイクでがなり立てる。2人の生徒が遅れたのには何か理由があるかも知れないのに、お構いなしで一方的にマイクでがなり立てる。叱っているのではない、単に怒っているのである。大勢の人の前で怒られことで18才の子供の心に与えるショックの大きさに思いが至らない。これが教育といえようか。その上、生徒が遅刻したから演技が遅れると怒っているが、自分がマイクでがなりたてていることで更に演技が遅れていることに気が付かない。この体育教師にこそ「反省しなさい!」と言いたい。

  このように、教育の基本すら知らない○○な体育教師が意味もなく威張っている、これが近年のK1高の情けない進学実績を作り出しているのである。

   我が母校 体育教師だけ 絶好調 

2016.9.10

 

 

有名塾に通わせれば成績が上がると思っている無知な親

 東京での役所勤めと子育てを終えた後、夫婦で生まれ故郷にUターンして学習塾を開業して3年目になる。今改めて思うのは、有名塾に通わせれば子供の成績が上がると思っている無知な親がいかに多いかということである。

 このような田舎町に大学受験生を指導できるまともな塾講師が残っているはずがないのに、なぜか地元の有名塾に相も変わらず大勢の受験生が通っていることが不思議でならない。大学受験生をちゃんと指導できる程の学力があるなら、普通は有名大学を卒業して中央官庁か大企業のサラリーマンになっているのであって、いい年をして田舎町で塾講師などしているはずはないのに、無知な親達はこのことを知らないらしい。塾講師などという仕事は、まともなサラリーマンになれない者が、自分自身受験時代にまともな点数を取ったこともないくせに、それらしいふりをして、無知な親子から大枚を巻き上げているだけの実に怪しい職業なのである。大学受験生の指導を標榜しているくせに、自身の学歴は恥ずかしくてオープンに出来ないのである。

 そんな塾に長々と通ったところで、大学受験に必要な指導ができるわけがない。東京の大手予備校の映像授業を見せるか(映像の中の講師の名調子に惑わされて分かった気にさせられているだけで、実のところ全く分かっていない)、そうでなければ、出来合いの問題集とどこからか手に入れてきた(これが不思議!)学校の定期テストの過去問を解かせて答え合わせをさせるだけ。講師には生徒の質問に答える能力もない。その結果、生徒自身がもともと持っているはずのわずかな思考力すら奪われてしまい、勉強の何たるかさっぱり分からなくなり、私達の塾にたどり着いた頃にはほとんど手遅れ状態となっている生徒をこれまで何人見てきたことか。塾の経営に貢献しただけの、可哀想な生徒達である。

 お母さん方。そろそろ目を覚ましましょう。自身の学歴も怪しい塾の先生にいくら教わっても賢くはなれません。かえっておかしくなります。塾に大枚払わされて、あげくの果てが、名前を書いて入学金を払えば即合格の3流大学へ子供さんを入れるだけでいいのですか?お子さんをそんな大学へ入れるのなら、塾など行く必要はないのですよ。

  エセ塾の 数珠を握って 空拝む (吉幾三のパクリです)

2016.8.31

 

 

 

先輩がオリンピックに出たからといって・・・

 k1 高のOBがリオオリンピックに出場するとかで、地元は大騒ぎである。K1高主催、自治体主催と大々的に壮行会を催したかと思えば、試合の当日は今流行りの300インチ大画面によるパブリックビューイングとか。何のことはない、当該選手をダシにして、周りの人が騒いでいるだけなのである。秋祭りのエキストラ版が早くやってきただけのことである。

 本当に当該選手のことを思うならば、オリンピック本番へ向けての調整で一番大切な時期に壮行会などに引っ張り出してきて余計な気を使わせるのではなく、試合が終わるまではそっとしておいてやり、終わってから結果の如何にかかわらずご苦労さん会をやってやればいいのであって(終わってからではお金が集まらないのが目に見えているからか?)、当該選手の都合などお構いなしに、周りが文字通りお祭り騒ぎをしているのをみると、選手が可哀想に見えてくる。まあ、地元の自治体からすれば観光名所が 一つ増えたのと同じようにめでたいことなのだろうが。

 しかし、k1 高のOBがたまたまオリンピックに出たからといって、おかげで在校生の進学実績が良くなるわけでもない。なのに、まるで郷土の英雄のように扱うこの風潮というのは、今やk1 高が進学校ではなく体育学校(もどき)であることを如実に示していると言えよう。

2016.8.6

 

 

大手予備校にいけば合格できると思っている勘違いな浪人生

  高校受験時の勘違いの成功体験(実態は三観地域のクラス分けテスト程度の入試にもかかわらず、自分は地域一番の進学校に合格したエリートだと錯覚している)を抱いたままクラブ活動に楽しく高校生活を送ったあげく、本人の淡い期待とは裏腹に(客観的には予想通りに)大学受験に失敗した生徒が、決まって言う言葉―「K1高の補習科はレベルが低いので、東大や医学部に大人数合格している大手予備校に通って、頑張ります。」

  まあ、大手予備校にとって、こういう生徒が典型的な(授業料の)「運び屋さん」になるのである。大手予備校は、授業料や寮費の免除の特典をエサに東大や医学部を受験予定の高偏差値浪人生を囲い込んで、東大合格○○人・国公立大医学部合格○○人と華々しい合格実績を喧伝しているが、K1高のような田舎者の生徒は、補習科や宅浪では高校の下級生や近所の口さがない婆さん達に「あの子は浪人しているんだ」と陰口をたたかれるのが怖いからか、まんまとこのようなエセ実績の宣伝に引っかかって申し込むのである。周りの陰口に耐え抜いてこそ、何としても来年こそは合格しなければという気持ちになるのであって、それが嫌だからと逃げているような浪人生では、どうせ1か月もたてばスマホ遊びに浸るだけの毎日に逆戻りして、1年後の不合格は目に見えているのである。そうとは知らない親は、あれだけの合格実績がある予備校に通わせるのだから我が子も来年こそは合格してくれるだろうと、大枚はたいて送り込む(授業料と寮費併せて200万円以上)。このような親子を、この業界では、「運び屋さん」と呼ぶのである。大手予備校にとって、エセ合格実績に関係ない多くの生徒は、授業料を運んでくれさえすればよい、ただのお客さんなのである。

 浪人生諸君。君が不合格だったのは、君の学力が客観的に不足しているからであって、補習科のレベルが低いなどと言う前に、自分のレベルが低いことをまず認識しなければならない。必死になって自分で自分のレベルを引き上げようとしない限り、大手予備校に通おうが、補習科に通おうが、宅浪しようが、合格には関係ない。周囲の陰口に耐えながらコツコツと実力をつける覚悟なくして来春の合格はありえない。それが嫌なら、K1高卒のブランドを生かしてそのまま就職した方が(もちろん親のコネが必要だが、情けないことに、当地の親は皆なんとかしてくれる)、当地ではよほど安楽な人生が送れることは間違いないということをこの際よく考えてみよう。

 といったところで、所詮、高卒で就職する勇気もなく、口だけ元気な近所の婆さん達の陰口に耐える勇気もなく、結局、大手予備校の運び屋さん(money carrier)として無駄な1年を送るのだろう。何とも情けないことだ。

   運び屋の 布施でウハウハ おいしいな

2016.3.10

 

K1高はついに入試事務まで駄目になってしまったのか

 28年度一般入試のK1高の出願数が2月17日16時の願書受付締切時点で、募集233人ー出願230人ー倍率0.99と発表されていたのだが、いつの間にか、募集233人ー出願240人ー倍率1.03に修正されてる。17日夜に塾へ来た受験予定の中3生たちは定員割れで喜んでいたが、このことを知った今頃はさぞ落胆していることだろう。おそらく高専の合格発表でK1高の実受験者数は若干は減るだろうが、それにしても、K1高にしようかT高にしようかと悩みに悩んでいるボーダーライン上の受験生や保護者の気も知らないで、何と罪作りなミスをするものだ。学校をあげて運動ばかりに呆けていると、最後の砦であるはずの事務方までこうなってしまう。恐ろしいことだ。

  もちろんK1高は正しい数字を報告したにもかかわらず県教委が間違った数字を計上した可能性もある。それならそれでホームページ上で事の顛末を釈明すべきである。今やSSH旅行記と化しつつあるK1高ホームページは、本来このような大切なことを報告するためにあるはずだ。それとも、このまま何事もなかったかのごとく、ほおかむりをしてうっちゃるつもりだろうか。

  入試という、場合によっては生徒の一生を左右することのある重大な事柄を取り扱うのであるから、事務上のミスは絶対に許されない。出願数の取り扱いでこんなミスをやっているようでは、受験生や保護者は、いったい肝心な採点の方は大丈夫なのかと疑心暗鬼になってしまうだろう。

 先日のインフルエンザの蔓延といい、今回の受験生の心をもて遊ぶようなミスといい、K1高のたるみは、もういい加減にしてほしい。自分たちが預かっている公務の重要性に少しは思いを致し、少なくとも給料分はちゃんと働けと言いたい。

   他人事 ミスがあろうと ほおかむり

 2016.2.19夜

 

  

なぜK1高だけに学級閉鎖が相次ぐのか

   K1高でインフルエンザが猛威を奮っている。2年生で学級閉鎖が相次いだと思えば、今度は1年生にも蔓延してし始めた。ところが、県内の公立学校でインフルによる学級閉鎖はK1高だけだそうである。それどころか、この地域の他の施設でインフルの蔓延というニュースなど一切聞かない。実際、うちの塾に通っている他の学校の高校生や中学生達は皆ぴんぴんしている。センター試験後に蔓延し始めたのがまだせめてもの救いだが、センター前の重要な時期に3年生を一室に集めてお気楽にエイエイオーをやっていたくらいだから、3年生にも蔓延する可能性は十分にあったわけである。センター後だったことは、ただの幸運でしかない。

  それにしても、青少年の中でも体力的に一番充実しているはずの高校生が次々にインフルに倒れるとはどう考えても異常だ。それも、K1高だけなのが。

  要するに、普段から運動ばかりさせて体力を消耗させているから、こういうことになるのである。今回のインフルエンザの蔓延も野球部を始めとした運動部から始まったことが、このことを証明している。体力だけは自信のあるはずの生徒達がバタバタとインフルに倒れていったのである。年がら年中やみくもに運動ばかりさせて、生徒達の知力ばかりか体力まで奪っているからである。「文武両道」が聞いて呆れる。

 そのうえ、教師達のその後の対応もいただけない。たとえば、学級閉鎖が1つでも出た段階で、全学年全教室の窓という窓を1つの時限の授業が終わるたびに一定時間開放させて、インフルのウィルスを放逐すべきなのである。なのに、やったことは漫然と学級閉鎖を増やすことだけ。インフルは寒いからなるのではない。ウィルスに感染するからなるのである。こんな基本的なことも知らず、或いは、知っていても対応せず、教師達自身が暖房の中でぬくぬくと過ごすことを優先しているからこういうことになるのである。K1高だけでなく県教委もなぜこういうことになったのかを反省すべきである。インフルを蔓延させて開業医を儲けさせるのが教育委員会の仕事ではないはずだ。

 そもそも普段から、やれ海外研修旅行だ、やれ東京研修旅行だと浮かれているから、こういう恥ずかしいことになるのである。実際、県内の他の公立学校では学級閉鎖がないではないか。

  K1高は、生徒に運動ばかりさせて頭を使わなくさせるのではなく、普通科の高校らしく、少しは勉強させるべきだ。

   運動に 加えてインフル 寝てばかり

 2016.1.28

 

  

大学入試は気合いだー!、って?

   正月早々、K1高の3年生は大教室で勉強会と称してエイエイオーをやっている。K1高の教師達は何か勘違いしているのではないか。大学入試を体育大会と同じように考えているようだ。みんなで集まって、アニマル何とかのように「気合いだ。気合いだ。気合いだー!」とやっていればうまくいくと思っている。

 要するに体育教師の発想なのである。彼らは本当の勉強というものをしたことがないからわからないのだろう。「勉強は一人で孤独にコツコツとやるもの」である。みんなで集まって勉強会などと称するイベントをやるのは、所詮、何時間か過ごして勉強した気になって実は何も残っていない状態を作り出すだけである。

 言うまでもなく、大学入試は生徒の一生をも左右する非常に重要な関門である。それを目前にしたこの時期に大勢で勉強会イベントなどをやることは、ただの時間の無駄使いになるだけでなく、かえってセンター試験を控えた大切なこの時期に風邪をもらって体調を崩す危険すらある。

 学校として何かやっている格好をするというのは、所詮形だけ整えれば給料をもらえる公務員の発想であって、本当に生徒のことを考えているとは思えない。このような打ち上げ花火を発想するのではなく、普段の授業をこそ大切にして指導してもらいたい。年がら年中イベントばかりやっていて、落ち着いて勉強する空気のない状態では、よい進学実績など望むべくもない。まあ、今のK1高に発想の転換を求めても無理だろうが。

 普段、運動ばかりさせて頭を使わなくさせておいて、この大事な時期に勉強会イベントもないものだ。

   エイエイオー これで通れば 世話はない

2016.1.2

 

 

久しぶりの会話成立

   先日、ひょんなことから4大メガバンクの一つの副支店長さんが当塾を訪ねて来られた。このホームページをご覧になっているらしい。聞けば地元出身でT高から京大を卒業後その銀行に就職されたとのこと。ふるさと人事の一環で何年かぶりに故郷の支店に戻られているのである。筆者は、東大の友人の一人がその銀行の前身にいたこともあり、何となく親しみを感じたのだが、それ以上に嬉しかったのは、Uターン以来久しくなかった知識レベルの高い人と会話ができたことである。日頃、自分の無知無能さを覆い隠すため(あるいは、その自覚症状すらないのかも知れないが)嘘で塗り固めた知識レベルの低い話ばかり周りで見聞きしているので、この方の謙虚ながら知識レベルの高い話を聞いていると久しぶりに気持ちがほっとするのを感じたのである。

 Birds of a feather flock together.(類は友を呼ぶ。)K1高生たちには、三観地域のクラス分けテストに過ぎない高校受験でK1高に合格した程度の成功体験にいつまでも浸っているのではなく、少しは大海を目指して欲しいところだ。だが、実際は地元の駅弁大学へ行ければまだましな方で、大半の生徒は親の世代が名前を聞いたことのないような大学とやらへお金で進学していくのが何とも情けないことだ。4年後もまた親がお金で何とか就職させるのだろう。

 In this part of the country, the less intelligent a person you are, the happier a life you can lead.

 2015.12.20

 

 

受験指導を標榜しながら

平気で年末年始を休む厚顔無恥な塾

 筆者が信じられないのが、受験指導を標榜しながら平気で年末年始を休業する塾である(中には、大晦日だけに勉強会と称して受験生を集めてお祭りイベントを開催して手の込んだカモフラージュをする塾もあるが。)。受験生に対しては、普段から「お前たち受験生には盆も正月もない。死に物狂いで勉強しろ。」と偉そうに言っているくせに、指導する自分は平気で休んで正月を楽しむのである。特に多くの高3生にとってその出来不出来がその後の人生を左右する大きな関門であるセンター試験を目前にした一番大事なこの時期に、受験生をほったらかして、自分は酒を飲みながらテレビのバカ番組を見て笑いころげているのである。情けないことに、大枚はたいてその塾に我が子を通わせている保護者のほとんどが、このことの欺瞞性に気が付いていない。筆者には、あとわずかで受験本番を迎える受験生を抱えていながら平気で休んで恥じないこのような塾の厚顔無恥さが到底理解不能である。教育関係者としての職業的良心が少しでもあるなら、年末年始を休むなどということはあり得ないことだ。いかにその塾の経営者が、塾というものをただの金儲けの手段としか考えていないことがわかるだろう。

賢明な保護者ならそのような欺瞞な塾に大切な我が子を通わせることがいかに馬鹿げたことかわかるはずだ。間違って子供を通わせているなら、今すぐにやめさせた方がよい。ところが実際は、そんな塾に通わせている保護者自身が我が子が受験生であることを忘れて正月休みに浮かれるのだろう。何とも情けないことだ。そんな親だから、その子供もお金を払って名前を書けば合格になるような3流大学に推薦で行くことしかできないのである。

 ちなみに、石川東大塾では年末年始も朝から晩まで毎日開けている。何も特別なことではない。受験生を預かる立場として当たり前のことである。

    いと楽し 生徒は受験 我は酒

 2015.12.12

  

 

提出物で生徒を支配して喜ぶ○○な教師たち 

信じ難いことだが、K1高では、定期試験の生の点数に、提出物を出したら最大+5~6 点、出さなかったら最大-20点という形で成績が決められるらしい。仮に100点満点の試験で100点取っても提出物を一切出さなかったら80点になるわけである。これが内申評価となって推薦入試に使われるのである。何と恐ろしいことであろうか。中学校の生徒管理の手法のまんまである。こんなことが「地域で1番の進学校」を自認するK1高でまかり通っているのである。

 今でも思い出すと腹が立つのだが、今では国立大医学部を卒業して血液内科医として活躍している長女が公立中学1年の時、国語の教科書に出てくる漢字を出てくる順にすべて丸写しせよという馬鹿げた宿題に抵抗して提出しなかったからという理由だけで、テストはすべて満点の長女の国語の評定を何と3にしたバカ教師がいた(私は今でもこの教師だけは絶対に許さないと思っているのだが)が、何とそれと同じことをK1高の教師達がやっているのである。 

K1高の生徒達は、教師から言われるままに、本来の勉強をする代わりに、くだらない提出物を出し続けることで内申評価を上げてもらって何とかして3流私大の推薦合格を得ようと必死である。何と馬鹿げたことか。こんなことをやっていて進学実績が良くなるわけがない。

それにしても、K1高の教師達は、内申評価をエサに思うがままに生徒をコントロールして、何と楽しい教師生活を送っていることだろう(おそらくこの教師達自身が高校時代に提出物を出しまくって推薦で大学に進んだ口なのだろうが。)。よく、「○○は3日やったらやめられない。」と言われるが、まさにK1高の教師を3日やったらやめられないわけだ。しかし、覚えておいた方がよい。提出物を出さないことで20点マイナスされた生徒の心ある保護者も子供も、決してあなた方のやったことを忘れないであろうことを。

自分はただの一教師の分際のくせに、抵抗できない立場の者(生徒・保護者)に対しては専制君主のごとく振る舞うのである。

正々堂々と国公立大学の一般入試で合格を勝ち取ろうとする生徒は、くだらない提出物

など無視して、ひたすら実力をつけることに専念するべきである。所詮、K1高の内申評価5なんて東京の進学校の内申評価3にも値しないのであるから。

   提出物 しこしこ出して 3流大

2015.12.10

 

 

SSHって、いったい誰のためのもの?

  K1高が生徒集めの売りにしているのがSSH(スーパー・サイエンス・ハイスクール)なる怪しいカリキュラムである。どうやら少ないながらも比較的成績の良い生徒がこの売り文句につられて2年から理数科を目指すらしい。筆者はK1高理数科の第1回生であるが、当時はこんな怪しいものはなかった。数学と理科の多い時間割で、新進気鋭の先生達による、ある意味純粋に知的好奇心をくすぐるような授業が行われていた記憶がある。しかし、今ではSSHがあるから理数科がカッコいいと思って志望しているようだ(特に普通科の生徒の修学旅行が北海道なのに、理数科の修学旅行はアメリカなのは彼らの勘違いのエリート意識をくすぐるらしい。)。

ところが、実際に入ってみると、3人1班に分かれて自主的研究とやらに振り回されている。これを終えるのに、普通で3年生の8月まで、班によれば11月までかかっている。あとわずかで受験を迎える3年生が、このような受験勉強以外のことのために秋まで振り回されているのである。何とも呆れてものが言えない。

いったいSSHとは誰のためのものなのか。はっきり言えば教師たちのためのものなのだ。わが校ではこのような進歩的教育をやっていますよと宣伝するための。と同時に、いや実はおそらくこちらこそが本命なのだろうが、校長の判断で自由に使える予算のために。一般に、公立学校には校長の判断で自由に使える金はほとんどないのであるが、教育研究目的とあれば話は別なのである。教育研究してさえいればよいのであるから、当該予算の使用目的の範囲内にある限り、国内研修旅行はもとより海外研修旅行でも何でもいいのである。引率する団長自らお上りさん気分のアメリカ旅行でも何でもいいのである。まさか酒宴に使われているとは考えたくないが。

しかし、よく考えてみればわかるはずだが、教育予算はあくまで生徒の教育ためのものなのであって、教師が予算を使って楽しむためのものではない。教育予算は生徒の学力を伸ばすために使われなければならないのである。しかし、SSHの実態は、生徒の学力を伸ばすための物理的時間をあきれる程に奪っており、むしろ生徒の受験勉強の邪魔になっているのである。

K1高は言うだろう。我が校は文武両道の地域のエリート校であるから、サイエンス教育もスーパーでなければならないと。笑ってしまうのだが、そもそもK1高レベルの高校生に大学教育のまね事をやらせて何になるのか。以前もこの欄に書いたように、K1高は地域では1番の高校かもしれないが、全国的に見れば、ただの普通科高校なのである(K1高の内申評価5といっても東京の進学高の内申評価3にも値しないだろう。)。このことは、実はK1高の教師自身が一番よく知っているはずである。なのに、人生で一番重要な大学受験を控えた3年生を秋まで拘束するようなSSHをいまだに続けているのである。SSHが、いかに生徒のためではなく教師達自身のためにあるものであるかを物語っていよう。

既に地域の中学生のトップクラスの2030人はM高へ抜けている(M高はSSHなどというくだらないものはやっていない。)のであるから、残ったわずかの比較的優秀な生徒をSSHなどという毛ばりで釣って駄目にするのではなく、きっちりと大学受験へ向けた教育をするべきなのである。どうしても教師の自由になる予算が欲しければ、大学受験のない実業高校へ行ってやればよいのである。現に香川高専詫間校はロボコンで全国に名を成しているではないか。彼らは就職に直結するからロボットの研究は理にかなっているのである。

そもそもSSHは、自分の子供は私立有名高へ入れて、公立高校へは入れようともしない文科省の官僚が予算獲得の名目に編み出したものに過ぎないのであって、それに便乗していくばくかの予算をもらって、やれ国内旅行だ、やれアメリカ旅行だと喜んでいるK1高が情けないのである。

いやしくもK1高が地域で1番の進学校を自認するなら、大学受験の邪魔でしかないSSHなど早急に返上して、ちゃんとした勉学指導をしてもらいたい。そうでないなら、せっかく保健体育の専門家を校長に戴いているのだから武武一本道でいくべきだろう。これも所詮、県大会1回戦2回戦負けだが。

  気をつけよう 毛ばりの先は 不合格

2015.129

 

追記 今年の1年生も何名かがSSHで明日から2泊3日の東京ツアーに出かけるらしい。しかし、ことわざに言う通り、タダほど高いものはない。こんな毛ばりにつられているうちに、次第に魂を吸い取られていくのである。可哀想なことだ。

 

 

 

校外模試って、いったい誰のため?

 これまた呆れることだが、K1高の生徒は校外模試を受けまくっている。1年の時から始まり、上の学年に進むにつれて多くなり、3年生などは定期試験か実力テストがない限り、ほとんど毎週末は校外模試という生活を送っている。受けることに精一杯であって、ちゃんと見直す時間もない。分厚い解説書を貰っても積んどくだけ。何週間か後に帰ってくる結果と志望校の合格可能性判定に落ち込んでいるだけである。そもそも容量の少ない電池なのに、放電ばかりしていて充電していないのである。

 筆者は、K1高がなぜ保護者に多額の金を使わせてまでこんなに多くの校外模試を受けさせるのか常々不思議に思っていた。校外模試などというものは、それを実施する大手予備校が模試の実施による金儲けのため、併せて全国の高校生の情報を収集してその営業に使用せんがためにやっているものであって、K1高の教師達がそのことを知らないはずがないのである。

そんな折、最近ある保護者から聞いたのであるが、模試の受験料は年度初めに、他の学校関係の経費と一緒に、一括して徴収されているとのことである。学校が徴収するのだから絶対に払わなければならないものと思い込んでいたようだ。お金が先取りされているから、受けないと損をする気がして、無理をしてでも受けさせているそうだ。保護者としては無理からぬことであるが、その結果、生徒は模試を受ける度に自信を喪失していき、やがては名前を書けば合格させてくれる3流大学へ推薦で行ければいいやとなるのである。筆者は、この話を聞いて合点がいった。100万単位の授業料を一括先払いさせる大手予備校の営業戦略と一緒ではないかと。

 民間企業である大手予備校が営業戦略の一環として模試を大々的に実施して金儲けするのは自由であるが、情けないことは公務員であるK1高の教師達が模試受験料の徴収に協力していることである。まさか伝統ある我が母校の教師達が先頃問題となった大阪桐蔭高(模試受験料の一部を業者からキックバックさせて私的に使っていた。)のようことをやっていることはないだろうが、いくら生徒の進学指導のためという名目があっても、年度初に模試受験料を一括先払いさせる予備校の営業に協力するのはやり過ぎである。校外模試などというものは、受けたい人が受けたい時に勝手に受ければいい(それも最小限に限る。)のであって、何も知らない生徒や保護者がすべて受けざるを得ないようにしようとする民間企業の金儲けに公務員が協力するなどということは決してあってはならないのである。それともこのようなことは、K1高に限ったことではないのだろうか。だとしたら、県教委の役人自体が、大げさな言い方かも知れないが、公務員の魂を売り渡したことになる。

李下の冠、瓜田の履である。校外模試の受験料の一括徴収への協力など、来年度からは絶対にやめて欲しい。そして必要もない模試は受けないように生徒に指導して欲しい。

公立高校の1年生や2年生が学習進度の異なる私立中高一貫高の生徒と一緒に校外模試を受けても全く無意味である。3年生でも数を絞って最小限受けるだけでよい。所詮は予備校が作る試験問題である。センター試験に匹敵するものではない。ましてや、大学毎に異なる個別2次試験には対応できない、一般的な試験問題でしかないのである。K1高は生徒を校外模試漬けにして自信をなくさせることに力を貸すのではなく、もっと日々の授業の中で基本問題がきちんと解けるように指導すべきである。もっとも、校外模試の多くは土曜日だから教師達は家でのんびりお休みか。

2015.12.9

 

追記 そういえば、大手予備校は、税金で建設運営されている高校の校舎を利用して、正々堂々と模試という商売をやっているわけだが、その施設使用料 はどうなっているのだろうか。県の収入になっていなければならないはずだが。まさか、無料にする代わりに・・・なんてことはないだろうが。

 

  

 

国公立大学医学部入試の

   地元優先枠制度は憲法違反では?

 全国47都道府県には防衛医科大学・自治医科大も含めて岩手県以外各県最低1校の国公立大学医学部医学科が設置されているが、地方医大の多くに、10年程前から入学試験の合否判定に地元の高校出身者(多くは大学所在県出身者。大学によっては、近県出身者を含むケースもある。)用の優先枠が設けられるようになった。多くの場合、各大学合格定員90名~100名程度のうち1020名程度が地元の高校出身者のための優先枠となっているのであるが、筆者はこの制度は憲法上おおいに疑義があると思っている。税金で医師を養成するための施設である国公立大学医学部医学科の入試の合否判定は、何より公平なものでなければならないのに、どういうわけか出身高校を理由とした差別がまかり通っているからである。

 一応のもっともらしい理由はある。それは地方における医師不足である。この問題は昔からあったのだが、それでも地方の総合病院は大学医局からの医師の派遣のおかげで何とかやりくりしていた。ところが、特に医大卒業後2年間の臨床研修の制度が法律上義務化された2004年以降は、同時に研修先を研修医が自由に選択できるようになったことから、以前ならほぼ全員が卒業と同時にその大学の医局に就職していたことで医師数の需給に余裕のあった大学付属病院自体が医師不足に陥り、その対策のため大学医局は関連病院から医師を引き上げるようになり、その結果、地方の総合病院は深刻な医師不足に陥ってしまった。

 ところで、毎年全国公立大学医学部医学科に5,000名以上が合格していき、それに対応した新人医師が誕生していくのに、どうして地方の医大付属病院が医師不足になるのか不思議に思うかも知れない。実は、国公立大学医学部医学科は、東京よりも地方へいくほど人口に逆比例して偏在しているのである。例えば、人口が1,300万人超の東京都に国立大医学部は東大と東京医科歯科大の2校しかないが、人口がわずか100万人足らずの香川県にも1校(香川大医学部)あるし、人口最少(60万人足らず)の鳥取県にも1校(鳥取大医学部)ある。同様に、人口の少ない他県にも防衛・自治医を含め岩手県以外各県1校の国公立大学医学部があるのである。人口比で考えれば、本来なら東京に20校以上の国公立大学医学部医学科があってしかるべきなのである。しかし、実際はわずか2校である。そうなるとどうなるか。東京在住の国公立大学医学部医学科を志望する高偏差値の大勢の受験生は、合格を求めてどっと地方医大へ走るのである。その結果、純粋に学力だけを合否判定基準とする限り、地方医大の入試合格者のうちに地元出身者はわずかしかいなくなってしまい、そして6年後、東京出身の学生の多くはそれまでの大学医局就職のたがが外れたため大学卒業と同時に東京へ帰ってしまい、地元にはほとんど残らなくなってしまったのである。

 このような状況から、地方医大卒業者をその大学の地元病院にとどめる方法として生み出されたのが、地方医大入試における地元出身者用の優先枠なのである。

 しかし、筆者は、いかに地方の医師不足が深刻であるからといって、入試の合否判定において地元出身者を優先するというのは、やってはならない禁じ手であったと思う。親に金があろうがなかろうが、優秀な生徒は公平な入試を突破することで国立大学へ進み立身出世をめざすことができるというのが明治時代以来の我が国が世界に誇ってきた教育制度であったはずである。しかるに、その典型である国公立大学医学部医学科の入試において、出身校の所在地という本人には何も責任のないことを理由に、合否において差別をするというのは、医師を地元に引き留める必要性がいくらあるとしても、法の下の平等を定める日本国憲法第14条に違反すると言わざるを得ないのである。

 では、地方における医師不足はどうするのかと言われるかも知れないが、それは給付奨学金の充実を含めた経済的な手法しかないと思う。一方で無駄な公共工事に莫大な税金を平気で使っていながら、医大卒業生を地元に引き留めるにはわずかばかりの奨学金しか使おうとしないのがケチくさいのである。受験生を入試で差別することで地方医大の卒業生を地元にとどめようというのは、とんでもないご都合主義で本末転倒の政策なのである。

 入試結果の本人への開示が行われるようになった現在において、惜しくも不合格とされた地元外の受験生から、この制度の合憲性を問う訴訟があってもよいと思うのだが、いまだにその例を寡聞にして聞かないのは不思議な気がするのだが。

 そもそも筆者は、高校間の学力格差が大きい現実があるのに、税金で運営している国公立大学の入試に高校時代の定期試験の成績を前提とする推薦入試制度があること自体が公明正大であるべき入試を不明朗にしているため反対である(はっきり言って、K1高の内申評価5などというのは、東京の進学高の内申評価3にも達しないのは明らかである。)が、ましてや医学部の推薦入試には何ともいえないうさんくささを感じている。その理由は、推薦入試というそもそも合格基準の不明朗な制度の上に、違憲の疑いの強いこの地元優先枠の制度が相まって運用されているからである。ひょっとしたら、私立医大によくあるように、受験する前から特定の関係者の子弟を合格させる密約が出来上がっているのではないかと勘ぐってしまうのである。

  自塾講師の学歴を誇れないから塾の宣伝に国公立大医学部合格を誇っている怪しい塾が多いが、国公立大医学部合格といっても内容はピンキリであって、特に地方医大の推薦入試で合格したのであれば地元優先枠を利用した○○な合格であるかも知れないのだから、塾の宣伝文句にはくれぐれもご用心なのである。それでも、自分自身まともな大学受験の経験もなくお金だけは持っている無知な親は、そういう怪しい塾の宣伝文句にまんまと引っかかるのだが。

ちなみに、我が家の医学部3人娘は、すべて明朗会計そのものの一般入試で合格を勝ち取っている。

  地域枠 怪しき者が 医者になり

2015.12.7

 

 

メガフェプスを自慢げに教える○○な教師

 先日の高1英語の授業での一コマ。動名詞の復習をやっていたらK1高の一人の生徒が自慢げに「メガフェプス」を唱えている。K1高の授業で先生から動名詞のみを目的語に取る動詞はメガフェプスだから覚えるようにと言われたという。念のために他の生徒に聞いてみると、やはり同じく先生から言われたという。目的語に不定詞ではなく動名詞のみを取る他動詞群を暗記するための語呂合わせとして以前から予備校などでメガフェプスなる造語が使われているらしいことは筆者も知っていたが、まさか学校現場でもやっているとは。何のことはない。大化の改新ムシゴヒキの世界なのである。動名詞の本質をおろそかにしてメガフェプスのお経を覚えたところで、まともな大学の実際の入試問題に太刀打ちできるわけがない。おそらくその教師自身がそうやって覚えてきた(すなわち浪人組?)のだろうが、事柄の本質を忘れたまま暗記さえすればよいとする指導姿勢がK1高の今のような情けない進学実績の一因になっていることに気が付いていない。その生徒には、「不定詞、動名詞の本質から考えないでそんな言葉を覚えて喜んでいるようでは、せいぜいその先生程度の○○な大学しかいけないよ。」と諭しておいた。

  一事が万事である。要するにK1高では教師自身が頭を使っていないのである。

 昔のことを言っても仕方ないが、塾長夫婦がK1高生の頃は、初めて理数科が設置されたこともあり、以前ここに記したように、今ではM高へ抜けている上位生もみなK1高にいたし、それに対応して先生も優秀な方が揃っていた。新進気鋭の教師たちが、時に我々生徒には難しく感じられたがそれでもなお、事柄の本質から理解させようと努力されていた気がする。ところが今やメガフェプスを自慢げに教えて喜んでいる。当時の頃を思えば、K1高の現状は本当に情けない。

 ちなみに、石川東大塾では、例えば不定詞、動名詞の本質から生徒に理解させるように指導している。

   メガフェプス 本筋忘れて あほ覚え

2015.10.17

 

 

先ずは運動部の時間制限をしなければ。

 塾長夫婦の母校K1高。運動部は、平日はもちろん、土休日も関係なく、時間無制限で練習しまくっている。どうも管理する者はいないようである。その結果といえば、県大会で1回戦負け、2回戦負けの繰り返し。それでも生徒達はこれこそ青春と思っている。

普通科高校の最大の目標は何であろうか。言うまでもなく、それは大学進学である。もちろん高校生活を自分がやりたいように過ごして有名大学に合格できればそれが一番いいに決まっている。しかし、そんなことが実現出来る人は極少数の超人のみである。ほとんどの人は自分が本当に達成したい目標があるなら、そのためには何かを犠牲にしなければならないのである。運動部で感動の涙も流したいし有名大学にも合格したいなどというのは、甘え以外の何ものでもない。ことわざに言うとおり、二兎を得ようとする者は一兎も得られないのである。まあ、大体において、一兎を得る能力のない者に限って、身の程知らずに二兎を追うものである。

運動が本当にできるなら運動で頑張って大学にいけばよい。そして体育教師になればよい(脳みそ筋肉などと陰口をたたかれるのがいやでなければ)。しかし、県大会で1回戦負け程度の力しかないのに、なぜ、のべつまくなしに練習しまくるのか。その結果、肝心な教科の授業中はスヤスヤ・・・。要するに勉強から逃げているに過ぎないのである。まあ、本人たちはまだ子供だから、自分が今やっていることが自分の将来に禍根を残すことになることを知らないのも無理はない。なら、なぜ周りの大人が諭してやらないのか。特に先生が。それこそが本当の教育だと思うのだが。まさか、「自分は公務員だから生活も安泰だ、担当の仕事だけしていれば結構な給料も貰える。休みもたっぷりあるから、自分と家族の生活をエンジョイできれば、それでいい。高校は義務教育ではないのだから生徒の人生は生徒が自分で考えることだ。」などと思っているのだろうか。そうは考えたくないが、どう見てもK1高は運動部を放置し過ぎである。生徒の将来のことを考えれば、例えば、平日は1800以降練習禁止、土休日は最低でもいずれか1日は練習禁止とでも制限するべきである。K1高のレベルでは、どんなに練習したところで運動で大学へいける人はわずかであって、ほとんどの生徒は勉強で大学を目指さなければならないのに、彼らのほとんどは高3最後の県総体で1回戦負けして感涙に咽んで引退したはいいが、その後大学入試の勉強を本格的に始めてみて、受験生全体の中における自分の客観的位置の低さに愕然としてしまうのだから。

 まあ、校長室の隣に歴代全国大会優勝者の名前(何と現校長先生の名も)を記した立派な銅板を誇らしげに掲げたり、正門横の塀に全国大会出場のクラブ名を書いた横断幕を掲げて喜んでいるくらいだから、ひょっとしたらK1高自体が現状を意識的にやらせているのかも知れないが。そう言えば、K1高ホームページの「校長のひとこと」も毎号運動部の話ばかりのような・・・。

 ここのところ、地元の秋祭りのために生徒の中には心ここにあらずの者もいる。高校生にもなってお祭りもないものだと思うが、それもせいぜい2~3日のことだからまあいいだろう。ところが、K1高の運動部は年中お祭り状態なのである。これでは進学実績が良くなるわけがない。生徒がせっかく持っている可能性もspoilしてしまうつもりなのだろうか。

 

 高校は、生徒の教育のためにあるものであって、教師が教師生活をエンジョイするためにあるものではない。

   クタクタの カラダにアタマ スカラカン

 2015.10.10   奇しくも旧「体育の日」に

 365日「体育の日」状態の母校を嘆く

 

 

元塾生の学歴を誇るのに

自塾講師の学歴を誇れない怪しい塾

最近の塾の宣伝チラシには、塾での指導の中心となる自塾講師の学歴については一切明らかにしないまま、塾生の合格実績を誇るため特にたまたま過去に在籍していたに過ぎない国立大学医学部合格者を引っ張り出しきて、いかにもその塾の指導が良かったから合格したかの如く宣伝しているものが目に付く。国立大学医学部合格といっても一般入試で正々堂々と合格した者と地元優先枠を最大限に有効利用して推薦入試で合格した者とでは実は大きな実力の差がある(筆者は国公立大学医学部入試における地元優先枠の制度は違憲ではないかと思っている)のだが、ここではそれは置いておこう。

問題は、たまたま過去に在籍していたに過ぎない生徒の合格先は大々的に宣伝するが、肝心な自塾講師の学歴については一切触れないその宣伝手法のずるさと浅はかさである。要するに当塾には大した学歴の講師はおりませんと言っているようなものなのに、それが分かっていない。いや、分かっているが、それをオープンにすれば塾生が確実に減ることを知っているからオープンに出来ないのである。自分には誇れる学歴がないものだから、あかの他人の学歴をまるで自分のものであるかのごとく誇るのである(He brags of another persons academic background as if he himself had it .)また 、そのような塾に限って、自分は経験すらしていない難関大学合格に向けた受験生の心得を偉そうに説く( He conceitedly preaches how to pass the entrance exam as if he himself had passed it.)。要するに全てが仮定法の世界(=うその世界)なのである。塾長のように自らが東大入試を突破し、我が子3人も国立大医学部医学科に合格させてきた者からみれば、そんな人間のするいい加減な説教は、所詮は他人のふんどしで相撲を取っているだけで、難関大学入試の本当の厳しさを全く知らないただの戯言に過ぎない。

ところが、情けないことに、塾探しをしている保護者はその辺りの事情に疎いものだから、国立大学医学部合格者を出した塾ならうちの子の成績も上げてくれるものと錯覚して子供を入塾させてしまう。その結果、その子は講師の学歴も明らかにできないような怪しい塾の「指導」とやらを延々と受け続け、その塾の繁栄に貢献することになるのである。まあ、そんな保護者は、お金だけは持っているものの、自身まともな大学に行っていないのだから、このような怪しい塾の宣伝文句に簡単に引っかかるのも無理もないが。

さらに、当地でも今や東京の大手予備校の映像授業が大流行だが、その合格実績などと称するものも実は嘘ばかりだということも御存知ないようだ。実際は、東京や大阪の高偏差値の中高一貫私立高生を対象に、模試を受けてもらうことを条件に映像授業の無料受講券をばらまいて合格実績とやらを稼いでいるに過ぎないのに、無知な保護者達は、自分の子がこの映像授業を受ければ有名大学に合格するかもと思い込んで大枚はたくのである。

保護者の皆さんも、たまには自分の子が実際はどのような講師に教わっているのかチェックしてみたほうがいい。実は高校時代にあなたより成績の悪かった人間が指導しているかも知れないのだから。さもないと、延々と大枚はたいて塾通いさせたものの、結局は金を払って名前さえ書けば合格になるような3流大学に推薦で行くしかなくなるのである。

2015.9.17

 

 

K1高文化祭を見学

   先日、久しぶりに塾長夫婦の母校であるK1高の文化祭を見学してきた。いくつかの展示を見た後で塾生が所属しているブラスバンド部の演奏を楽しんだが、在校生の親達が嬉しそうに拍手を送っているの見ていると、我々が自分の子育てに忙しかった頃が思い出された。

新校舎になってから最初の文化祭だったので校舎内も見学させてもらったが、校長室の前の通路の壁には立派な銅板の上に歴代の全国大会優勝者の名前が刻まれていた。なるほど、体育高校らしいことをしているなと感心していたら、その中に現校長先生の名も・・・さすが体育高校。

帰りに正門前を歩いていると、塀にはこちらも「祝全国大会出場!○○部 □□部 △△部」と東京の3流私立高でよく見かけた横断幕が・・・だめだ、こりゃ。

学校からしてこれでは、塾長の頃のような「東大現役合格○名!」なんて夢のまた夢だな (涙)。

2015.9.14

 

 

はんとにんげん?

 先日、些細なことから義母とちょっとした口論になった時のこと。義母いわく、「世間の人がおまえたち夫婦のことをなんと呼んびょるか知っとるんか。夫婦して塾なんかやんじょる「はんとにんげん」と言われよんぞ。」

  はんとにんげん?義母からは時々私達も知らない地元の言葉が出てくるのだが、その時もすぐには理解できず、「はんと」→「半斗」→お米を半斗しか稼げない人間→稼ぎの悪い人間ということかと思ったのだが、どうやら「半途」→道半ば→半人前の人間ということらしい。

  私達夫婦が「半途人間」ということなのか、塾なんかをやっている人間が「半途人間」ということなのか、おそらくその両方なのだろうが、中央省庁の局長職を定年まで勤め上げて第2の人生として塾を始めた人間を「半途人間」呼ばわりするその神経が理解不能だが、逆に、60才を過ぎてもまだまだ発展する余地が残されているということと喜ぶことにしよう。また、筆者だけでなく「世間の人」も塾などをやっている者は半人前の人間だと考えているらしいことがわかって、我が意を得たりの感もある。

 ということで、わが塾はこれからMr.&Mrs.HantoのiCS石川東大塾と呼ぶことにする。

2015.3.25

 

久しぶりの身元保証と連帯保証

 先日、しばらくぶりに東京に住む二女からメールがあり、社会人大学院の入試に合格したので入学に際して身元保証人と学費の連帯保証人になってくれるかということだった。二女は、国立大学医学部を卒業後医師となって6年、既に腎臓内科医として独り立ちしているが、4月からは大学付属病院で臨床医をしながら大学院医学研究科の博士課程で腎臓病の臨床研究をするとのこと。筆者は、身元保証人と連帯保証人には決してならない主義であるが、我が子の更なる成長のためと二つ返事で了解した。

我々夫婦は、子供が独立してからはこちらからは極力連絡を取らないようにしている。成人した子供にとって親からのメールほど見たくないものはないだろうと思うからだ。その点、いつまでも子供と一緒にいたがる世の親達とはさぞ違っているだろう。しかし、子供が本当に親を必要としている時に、ささやかでも子供を支えてあげることができれば、これこそ親冥利に尽きるというものだ。

2015.2.27

 

無知な保護者が怪しい塾のカモになる

 塾長夫婦が40年振りに故郷に帰って学習塾を開業して1年3ヶ月が過ぎた。地元の出身とはいえ浦島太郎のような塾長夫婦ではあるが、おかげさまで徐々にではあるが塾生の数も増えつつある。その中でひとつ顕著な傾向がある。それは当塾の塾生の保護者には地元出身でないの人方が多いということである。神奈川県、静岡県、愛知県、大阪府の出身の保護者の方がいらっしゃる。このような香川の西の片田舎に多くの他府県出身の方が住んでいること自体が驚きであるが、当塾のような小規模塾の生徒の保護者にこんな遠方出身の方がおられることは更に驚きである。その理由を考えてみるに、私達夫婦の経験から言っても、自分の故郷以外の地で生きていくのは、自分の祖先が造った基盤の上に乗っかって気楽に生きるということができないため大変な苦労があるものだが、その分、この地独特の因習に囚われない自由な考えを持ち、物事を客観的に見ることができることになる。「友達が通っているから」、「値段が安いから」等という浅はかな理由で塾を選ぶのではなく、私達夫婦の指導力に対して客観的な信頼を頂いた上で我が子を託してくれているのであろうと心から感謝している。

 さて、私達夫婦は学習塾業界に入ってまだ間もないが、つくづくこの業界は怪しい業界だと思う。自分の学歴すら明らかできないような人間が、自分の子どもに少しでも高い学歴をつけさせてあげたいという保護者の素直な心情につけ込んで指導と称して大枚をふんだくっているのである。本当かどうか確かめることのできないような(実はほとんど嘘と思われる)指導実績とやらを声高に叫ぶ一方、成績の伸びない生徒についてはその自己責任に押し付け、お金を運んでくれさえすればよしとする(このような生徒のことを塾業界の用語で「運び屋さん」と呼ぶそうだが。)。1クラスに何十人もの生徒を詰め込んだ、ほとんど「学童状態の塾」こそが塾の成功モデルなのである。要するに、実態は一定の時間子供を預かっているだけに過ぎない学童代わりなのである。それにしては預り賃が高すぎると思うのだが。

 実際に指導してみてわかることだが、一度に複数の生徒に教える場合、生徒全員の能力を伸ばすことができるのはせいぜい数人が限界である。それでも本当に理解している子とそうでもない子が出てくるのである。ましてや10人以上の生徒を一斉に教える場合に全員の力を伸ばすなどということは不可能であるといってよい。そのような授業で理解できるな子なら、そもそも塾など必要はないのである。

その上、そこで指導(もどき?)をしているのは、塾講師という怪しい人種である。片や、個別指導を売りにしている塾の場合も、そこで教えてくれる先生は、なおさらどこの大学に行った人なのかわからないような人達である。大卒であることすら疑わしい。考えてみれば、このような香川の片田舎に、いい年して正業に付かない有名大卒が残っているはずがないのである。

 そもそも、集団指導であれ個別指導であれ、自分の学歴すら明らかできないような怪しい人間に、可愛い我が子の指導を託する保護者の気が知れない。塾の嘘の宣伝文句に踊らされているだけなのに、そのことに気付かないまま大枚をはたく。自分が汗水たらして稼いだ貴重なお金をドブに捨てていることに気が付かない。(お金をドブに捨てているだけではない。我が子がせっかく持っている思考力すら、怪しい人種による、訳のわからない「指導」とやらで奪われていっているのに。)その先には、保護者が聞いたことのないような、「大学」とは名ばかりの所へ子供を「推薦」と称してお金の力で入れることしかできない状態が待っているのである。まさに「信じる者は救われる」を地で行く、幸せな親達なのである。 

 まあ、自分自身本当の大学受験というものを経験したこともなく、たまたま自分の親から受け継いだ遺産の上に乗っかって生活・子育てし、将来は子や孫と一緒に暮らせればそれが幸せであると信じて疑わない類の親にとっては、塾を学童代わりに利用できればそれで足りるのかも知れないが、子どもの将来のことを本当に思うのであれば、何とも情けない話ではある。

  本当に我が子の将来を思い、その可能性を伸ばしてあげようとする親であれば、必ずや私達夫婦の指導力に子どもを託してくれるであろうことを信じて、少ないながらも通ってきてくれている現在の塾生一人一人の学力向上のために全力を注ぐ毎日である。

大枚を はたいてエセ塾 通わせる

2015.1.31

  

 

馬に食わせる程の宿題を出す塾とそれを喜ぶ無知な親

 塾長の公務員時代、多くのメンバーが集まる会議でプレゼンをする機会がよくあったが、まだ右も左もわからない新米であった頃、会議のプレゼン役を乗り切る方法として先輩から伝授されたのは、「馬に食わせるほどの資料」を配ることである。会議を効率よく進めるために説明事項をまとめたレジュメを配布して、それに基づいて説明するのはよくあることだが、プレゼン役が一番恐れるのは、説明後の質疑応答の時間に自分の理解の不十分な事項について聞かれて、うまく答えられず、恥ずかしい思いをすることである。これをできるだけ避ける方法が、「馬に食わせるほどの資料」を配って、相手に質問させないことなのである。相手が資料を目を通すのに精一杯で、質問する余裕をなくさせるのである。プレゼン役としては何とも情けない方法ではあるが、それでとりあえず何とか凌げることがあることも事実である。

 さて、当塾への保護者の方からの問合せでよくあるのが、「宿題はたくさん出してくれるのか」、「定期試験や診断テストの過去問集はあるのか」といった質問である。当方の答えは決まっている。

 まず、当塾では宿題は出さない。塾での授業だけに集中してもらう。なぜなら、生徒たちは学校からの宿題(提出物)で手一杯なのである。内申に直結する(これはこれで大きな問題であるが)学校の宿題は嫌でもやらざるを得ないが、その上に塾が宿題で生徒を苦しめてどうするのか。宿題を出すことで保護者に対して私達はお子さんを指導していますよという体裁をとっているだけなのではないか。

 また、過去問については、最低限の過去問対策はやるが、過去問はあくまで過去問であって、その解答を覚えたからといって本当の実力になるわけではない。定期試験(中間テストや期末テスト)なら過去問を覚えることである程度の得点はできるかも知れないが、それは本当の実力ではないから、必ず後になって馬脚を現すのである(なのにそれで喜ぶ無知な保護者が多いのが何とも情けないことのだが)。生徒に本当の学力をつけさせるためには、日々の授業の中で、生徒が自分の頭を使って考え、答えを導き出すようにコツコツ根気強く指導していくしかないのである。過去問や類題をどこかからコピーしてきて、ドッサリと生徒に渡すだけなら、何も市販の問題集を買い与えるのと変わらない。会議で馬に食わせるほどの資料を配って質問を遮ってごまかすのと同じやり方なのである。

 要するに、自分の指導力に自信がないからこそ紙爆弾でごまかすのである。生徒に分かりやすく解法指導する自信がないのである。あるいは、そもそも講師自身が自分で解く力がないのだろう。子供に基本を根気強く指導する代わりに紙ばかり与えてどうするのか。

 紙ばかりもらっても、筆者の子供時代なら、既に農家でも馬は飼っていなかったから文字通り馬に食わせるのは無理だったが、それでも風呂焚きの火付けぐらいには使えたかも知れないが、今ではただのゴミ増やしである。

 私どもの塾は、教えるべき事項はすべて講師の頭の中に入っているから、必要以上の紙は配布しないのである。

 過去問を 馬に食わせて 金を取り

2015.1.31

 

 

 

K1高はやはり体育高校なのか。spoilとは。

 spoil は入試英語で重要な単語で、その意味は「台なしにする」ことである。特に子供を「甘やかして駄目にする」意味でよく使われるのだが、K1生を見ていると、運動部の生徒が まさに spoil されているのではないかと思う。

   K1高はすでに3年制の進学校ではなく4年制の体育高校になっているのではないかということは先に書いたが、このことを更に確信させたのが、高校総体と夏の高校野球の県予選に出場する生徒のための「壮行会」なるものを学校主催で堂々と授業時間中に誇らしげに実施していることである。地方予選を勝ち抜いて全国大会に出場する選手の壮行会ならまだしも、誰でも出られる単なる県予選に出るだけなのに、全校生徒の前で壮行会である。自他ともに「地域で一番の進学校」と認めているはずのK1高が、単なる運動部の県予選出場に学校主催の壮行会である。いかに勉強より体育を重視しているかがわかるというものだ。

 のみならず、野球部に対しては、1回戦には1年生全員が、2回戦には2年生全員が、いずれも200人以上をバス数台にしたためて高松まで応援に行かされたそうな。残念ながら(順当に?)2回戦で敗退したが、もし勝っていたら次は来春の大学入試を前にする3年生も全員応援に駆り出すつもりだったのだろうか。まさか、そこまではしないと思いたいが、そもそも、どの高校でも出場できる野球の県予選ごときに応援団を大挙して送り出すことの意味は何なのか。野球部の生徒に根拠のないスター意識を植え付けるだけではないのか。応援団を送るなら甲子園に行ってからにするべきである。十歩譲って県予選の決勝戦から、百歩譲っても準決勝戦からにするべきである。プロ野球の阪神しかり、サッカーの日本代表しかり、実力もないのに周りがもてはやすから強くなれないのである。K1高も野球部を特別扱いするからK1高の野球部は強くなれないのである。これこそ spoil そのものである。ちなみに、筆者がK1高生であった頃は、野球部の応援は希望者だけだったので、バス1台がガラガラだった(そうな。というのは、筆者は野球部の特別扱いに当時から反対だったので、1度も行ったことがない。甲子園にでも出場していれば行ったかもしれないが。)。女子サッカーのなでしこジャパンが強くなれたのは、応援する者がほとんどいない中で純粋にサッカーの好きな女の子達がひたむきにサッカーに打ち込んできたからである。大勢の応援を受けて県予選の1回戦に勝ったぐらいでスター気分でいるようでは、甲子園など夢のまた夢である。むしろ県予選の応援席がガラガラの中で試合をすればK1高野球部も少しは強くなるだろうに。

 さて、K1高がいやしくも「地域で一番の進学校」を自認するのであれば、学校として壮行会を催すのなら、誰でも出られる県予選に出場する運動部の生徒に対してではなく、大学入試に臨む生徒に対してこそ行うべきである。特に、K1高がただの普通科高校ではなく本当の進学校を目指すなら、昨年度の現役合格率0パーセントという(「進学校」というのが名ばかりであることを示す)情けない実績の旧7帝大と国公立医学部を目指す受験生にこそ学校としての壮行会を催すべきであると思うのだが、いかがだろうか。国体で優勝した生徒の横断幕を嬉々として正門横に掲出している位だから、やるわけないか。

2014.7.22

 

本当の「文武両道」とは

 多くの高等学校が校訓として掲げる「文武両道」。旧制中学をその前身としている我が母校のK1高も御多分に洩れずこれを校訓としている。

 そもそも戦前には旧制中学に学ぶことができたのは、地域の中でも極く少数の裕福な家庭の子弟だけだったのであり、旧制中学を卒業しさえすれば将来が約束されていた地域のエリートだったのだから、彼らは「文武両道」を掲げながら青春を謳歌していればよかったのである。バンカラを校風としていたというのも、所詮は恵まれた人々の中での甘えが許された時代の象徴だったのである。エリートは学校では遊び呆けていても卒業後も間違いなくエリートでいることが出来た時代だったのである。

 ところが、高校全入時代である現在では、地域で一番の進学校に通っているからといって、戦前の旧制中学のようにK1高を卒業しさえすれば将来が約束されているわけではまったくない。まして、今や大学も全入時代になってきているのである。実業系の高校とは異なり、その高校を出ただけでは大学受験資格以外何の資格も得られないK1高のような普通科高校では、高校生活も大学進学を何よりも優先にして送らなければならない。

 「文武両道」も戦前のようにはいくわけがない。文字通り「勉強もできるし、運動もできる」のでなければ「文武両道」とはいわない。高校の勉強がわからないから運動に逃げ込むのは「文武両道」ではない。ただの「武武一本道」(もどき?)である。
 ところがK1高の現状はどうだろう。一部の運動部の一部の生徒の実績ばかりが輝かしく、ほとんどの運動部には語るべき実績もない。なのに肝心な進学実績はとなれば・・・。運動で好成績を取った者は運動で有名大学に進学できるかも知れないが、所詮は一握りに過ぎない。それとて、オリンピック選手になれるわけでもなく、ただ単に数年後体育教師が1人増えるだけのことである。まして多くの生徒は「文武両道」の掛け声に甘えて運動に逃げ込むうちに、気が付いてみると親の世代が何度名前を聞いても覚えられない大学にお金で入るしかなくなっているのではないか。残念なことである。

2014.6.5

 

 

 

K1高進学実績低迷の訳は?

 「地域で1番の進学校」であるK1高の進学実績が振るわないのは、①交通手段の発達によって、昔であれば迷わずK1高へ入学していた地元の偏差値上位の生徒層の一部が今ではM高へ流れていることに一因があることは先に述べたが、②もう一つの原因として考えられるのは、K1高の入学定員が地域の15才人口の減少に比べて意外に減っていないことがあげられよう。

 筆者がK1高へ入学した昭和44年の入学定員は400人であったが、手元にあるデータによると現K市地域の15才人口は当時約3500人であった。これに対し、平成26年の入学定員は266人(昭和44年比66.5%)、現K市地域の15才人口は現在約1700人(昭和44年比 48.5%)である(もちろんこれに現M市地域の生徒が加わるわけだが、おそらく傾向は同じであろう。)。すなわち、この間、地域の15才人口は半減しているのに、K1高の入学定員は1/3減にとどまっているのである。

 筆者の独断によれば、K1高の大学進学実績は、15才人口の自然減のみを反映した数値より、偏差値上位大学への進学が①によって約20人減り、偏差値下位大学への進学が②によって約100人増えているのではないかとみている。

 K1高へお子さんを通わせている保護者の皆さんも、今のK1高は昔のK1高ではないことにそろそろ気が付かないと、数年先に「大枚叩いて大学へやったけれど・・・」という事態になりかねないのである。

2014.4.15

 

K1高は3年制の進学校、それとも?

 塾長夫婦の母校であるK1高の前を通りかかると、広い道路に面した塀に大きな横断幕が掲げられているのが目に入る。いわく、「祝国体陸上優勝○○君」。はて、我が母校はいつから体育高校になっていたのだろうか?

 我が母校が1900年創立の伝統校であり、かつ、地域で一番の進学校であることは自他共に認めるところであるが、果たしてその最近の進学実績はどうなのか、K1高に一番近い進学校であるM高と比べてみた。

 26年度の国公立大合格実績は、①国公立大全体でM高188人(内過年度生62人)に対しK1高111人(53人)、②このうち国立大学はM高159人(51人)に対しK1高85人(45人)、③このうち旧一期校はM高105人(35人)に対しK1高39人(24人)、④さらにこのうち旧帝大7大学に国公立大医学部を加えた合格実績はM高45人(18人)に対しK1高7人(7人)であった(ホームページで公表されている数字から筆者が集計)。なお、1学年の定員は26年度M高280人、K1高266人である。

 現役の合格率でみると、①国公立大全体でM高45.0%に対しK1高21.8%、②うち国立大学ではM高38.6%に対しK1高15.0%、③うち旧一期校ではM高25.0%に対しK1高5.6%、④うち旧帝大7大学+国公立大医学部に至ってはM高9.6%に対しK1高は0%である。

 塾長夫婦が高校生の時代には、地域の成績優秀な生徒は全員がK1高に入学したものだが、交通手段が発達した現在においては、地域の偏差値上位の中学生は電車通学を余儀なくされようとも敢えてM高を目指す傾向がある。我が母校K1高は、「地域で1番の進学校である」ことは今も変わりないが、今では「地域で1番の生徒が必ずしも通っているとは限らない」ことを我々教育関係者は肝に銘じて進学指導に当たらなければならない。また、保護者の皆さんにおいてもお子さんがK1高生であることを喜んでばかりはいられない現実があることを直視して頂きたい。今ではK1高は、地域で1番の進学校といっても、全国レベルでみればただの普通科高校なのである。M高はもとより、目を全国に転ずれば、K1高よりはるかに偏差値の高い高校の生徒達がクラブ活動などには目もくれずひたすら勉強しているのであり、K1高の生徒も大学入試においてはこれらの生徒達と戦うことになる。

  どの高校を経由しようが、重要なのは最終学歴である(It is which university you graduated from that counts,not which high school.)。地域で1番の進学校に通う生徒であることを誇りを胸に青春をクラブ活動に賭けるのは楽しいことだが、所詮イチローになれるわけはない。3年の2学期になって気が付いてみると国立大はもとより一応名前を聞いたことのある私立大すら現役合格はおぼつかない成績になってしまっている自分がいる。結局は、親の世代が何度聞いても名前を覚えられないクラスの私立大へ推薦入学するしかなくなる。さもなくば浪人である。
 このままでは下手をするとK1高は、地域で1番の3年制の進学校といいながら、実質的には4年制の体育高校になってしまうおそれがあるのである。聞けば、高校総体前ともなると授業をスルーして練習試合に行く。それが普通の風景になっているとか。ひょっとして、K1高は
既に立派な体育高校になってしまっている?

PS 上記の横断幕は、当該生徒が卒業したからであろうか、新年度からは撤去されたようである。

2014.4.10

2014.4.28データ更新

 

26年入試の「受験生お別れ会」を開催しました

 3月29日(土)10時から「受験生お別れ会」を開催しました。数学と英語の最後の授業の後、ささやかな昼食会を行いました。

   当地の出身とはいえ、40年ぶりのUターンのため、ほぼ浦島太郎状態の私達夫婦が始めた学習塾が最初に教えた受験生のみなさんです。私達夫婦を信頼して付いて来てくれて、全員目標校への合格を果たしてくれました。→ 26年入試 合格実績

  勉強を教えていたはずが、逆に若い受験生の皆さんからパワーをもらえて嬉しい限りです。それぞれ進む道は違いますが、次の目標に向かって頑張っていってほしいです。

   若さとは、本当にすばらしい。

2014.3.30

 

 

英語を甘く見てはいけない

 当塾では中高生に英語と数学を指導していますが、最近の入塾希望者に多いのは、とりあえず数学を何とかしたいというケース。あれっ、英語は大丈夫?

 生徒だけでなく保護者の方も勘違いをされている可能性があるのですが、英語を甘く見ていると後になって大変なことになります。

 大学受験では大きく文系と理系に分かれますが、数学が出来なければ最後は数学を捨てて私立文転することができますが、英語を捨てたら行けるところはありません。もちろん入学金を納めて名前を書けば合格できる大学は沢山ありますが、はっきり言ってそのような大学なら行かないほうがましです。4年後の就職に当たって何ら有利にならないだけでなく、年を食っているだけかえって不利になります。私立文系といっても一応名の通った大学(親の世代が名前を聞いてわかる大学)に行こうとするなら、英語は必須の科目です。英語を捨てては名前を聞いてわかる大学へはいけないのです。

 もちろん、今後とも日本の社会で生きていく上で英語は全くといってよいほど、不要でしょう。生活していくだけなら英語など勉強しなくても何ら困ることはないのです。だから今流行の英会話学校など日本で生きていく限り全く無意味なのです。なのになぜ、入試の世界では英語を必修にしているのか。おそらく英語教育関係者を始めとした英語産業の利益ためでしょうが、良い悪いは別として、現実に大学受験の科目として英語を避けて通ることはできなのです。

 数学もそうですが、英語は積上げの科目です。中1から中2、中2から中3、そして高校英語と、基礎から少しずつ知識を積み上げていくしかありません。まさに一朝一夕には成らない科目なのです。特に、筆者の受験時代と異なり、今は中学英語で学ぶ範囲が非常に限られており(関係代名詞止まり)、昔は中学校で学んでいた範囲の多く(関係副詞、話法、as if、知覚・使役動詞等)が高校送りとなっています。中学校の英語でわかったつもりになっていたら、高校に入ったとたんに英語がわからなくなり(中学で話法やas if をやらないために、特に時制の感覚が身に付かない→長文読解ができない。)、気がつくと私立文系と言えども行く大学(大学という名前だけで良ければいくらでもありますが。)がなくなってしまうのです。

 ましてや、中学英語の段階でつまづいていては、何年か先の大学受験では本当に辛いことになります。親の世代が何度聞いても覚えられない名前の大学へお金で入ることしかできなくなるのです。

 例えて言えば、仮定法のわからない高校生の君は十分イエローカード、英語の語順の怪しい中学生の君はほとんどレッドカードです。

 このようなことにならないよう、英語を甘く見ないでしっかり勉強しよう。嫌でもね。

2014.3.12

 

 

模範解答を覚えさせる指導の弊害

 ある日の塾生と数学講師との会話。

 講師「この問題は解けるかな?」→生徒「確か、前の塾でこう教わった記憶が」→講師「なるほど。でも教科書ではそういう解き方はしないよね。で、どうしてこうなるのか説明してくれる?」→生徒「えっ?あの、・・・わ、わかりません(汗)。」→講師「・・・。」

 なお、この生徒は地元の名門高校も十分射程距離にある優秀な生徒です(念のため)。おそらく、彼に指導した塾の講師自体がその問題を自分の力で解いたことがないのでしょう。要するに、講師用虎の巻から模範解答を板書しているだけなのです。だから、なぜそうなるのかを生徒に教えることもできていないのです。

 この会話を隣りで聞いていた塾長は、当塾が常々説いている「模範解答を覚えさせる指導ではなく、自分の頭で考えて答えを出すよう導く」ことの重要性を今更ながら確信したところです。2014.2.20

 

 

頑張れ受験生!

 国公立大入試の2次試験と県立高入試の一般試験を目前に控えて、このところ連日、夜遅くまで受験生の皆さんが自習に来てくれています。塾長夫婦は還暦前後の老夫婦ですが、指導しているはずの若い受験生達から逆にパワーをもらっています。

 長かった受験勉強もあとわずかでゴールです。体調管理に万全を期しながら、このまま突っ走って欲しいです。2014.2.16

 

 

ヴァイオリンのミニコンサート

 新年おめとうございます。本年もiCS石川東大塾をどうぞよろしくお願いいたします。
 1月1日夜には、塾長夫婦の二女(内科医)と三女(国立大医学部4年生)が、帰省を機にヴァイオリンのミニコンサートを開いてくれました。塾生とその家族の方にも参加していただき、楽しい時間を過ごすことができました。クリスマスやお正月の定番ソングの他、パッヘルベルのカノン、モーツアルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク、バッハのG線上のアリアなど有名な曲の生演奏でした。やはりヴァイオリンの生の音色はじんわりと身体に響いてきて心地良いものでした。普段はそれぞれ忙しくしている娘達が親元で落ち合ってコンサートを開いてくれたことが、親としてとても嬉しいお正月でした。 2014.01.03

 

答えを覚えようとしてはいけない!

 学習塾を開業してみて驚くことのもう一つは、生徒は学校からも塾からも、答えを覚えることばかりを指導されて、なぜその答えに至るのかについての順を追った満足な説明をされていないのではないかということです。
 理解力もまちまちの多人数を対象にして教科以外の行事にも追われる学校では、ある意味止むを得ない部分もあるかも知れませんが、せっかく安くない料金を負担して通わせている塾においても、ただ答えを覚えることしか指導されていないとすれば、何のための塾通いかということになります。生徒からすれば、なぜその答えに至るのかを理解できないまま答えをただ覚えようとすることは、無味乾燥を通り越して苦痛ですらあります。 結果として、わからない問題の模範解答を丸写しして、勉強したつもりになってしまうのです。
 基本事項(例えば、英語の語順)を生徒にわかりやすく教えることは、なかなか難しいことですし、手間と時間も要することですが、これなくして生徒に真の学力がつくことはありません。
 iCS石川東大塾では、たとえ余分な手間と時間がかかっても、基本事項をわかりやすく徹底的に指導していきたいと考えています。2013.11.27

 

塾指定教材はなぜ必要なの?

 学習塾を開業してみて驚くことは、既存の多くの塾では、保護者の方が塾から言われるままにその塾指定の教材を買わされていることです。生徒は、学校指定の補助教材に加えて塾指定の教材まで持たされて、どこから手をつけていいのかわからなくなっている状態です。
 実は高校受験はもちろん、ほとんどの大学受験でも教科書で十分なのですが、多くの保護者にとって自分の子供の受験が未知の世界であるがゆえに、「自分の受験の頃は、学校の補助教材だけだったのに、今ではそうなだろうか」と、訳のわからないまま高価な教材を買わされているのが実態です。
 本来、教科の指導に当たっては、講師の頭の中に入っている事柄を生徒にわかりやすく伝えることで十分足りるはずで、補助教材は不要です。
 指定教材を買わせる塾は、講師の頭だけで教える自信がないのでしょう。一度疑ってかかりましょう。2013.11.25

 

国公立大に合格するには

 一般に国公立大の合格ラインは、センター・2次トータルで6割から6割5分と考えてよい。旧1期校(古い!)に多いセンターと2次の配点が50・50の大学でも、センターで7割、2次で6割取れば合格なのだ。難問に挑戦して自信を失うより、基本問題を完璧に解けるようになろう。まして、センター配点の高い地方国立大の場合はなおさらである。例えて言えば、青チャートではなく、黄チャートで十分なのだ。今からでも遅くない。君の勉強方法を見直してみよう。2013.11.25