しゃべるだけならあほでもできる

   田舎の喫茶店は、婆さん化した爺さんたちのたまり場である。テレビのワイドショーが垂れ流しているくだらない情報を、さも自分が考えたかのようにべらべらしゃべる。有名人にまつわる噂話から我が国の、ひいては世界の政治、経済まで、いっぱしの評論家気取りで、しゃべるは、しゃべるは。それも耳が悪いのだろう、大声で、傍若無人に。(年を取ると爺さんも婆さん化するのだなと痛感する。)テレビ情報が尽きたところで、いつものように近所の噂話へ。どこそこの誰それがどうしたこうした。(他人のことを云々する前に自分のことをしゃべれよと思う。自分には誇れるものは何もないことを知っているので、他人を蹴落とすことで、相対的優位に立とうとしているのだろうが。)ところが、皆が皆、自分の言いたいことをべらべらしゃべるばかりで、誰も相手の話は聞いていない。所詮、ワーワー、ワーワーと騒いでいるだけなのである。もっと知的な会話はできないのかとつくづく思う。

   英語の会話も同じことである。24時間365日英語圏に住めばだれでも日常会話なら英語が話せるようになる。日本の小学生が日本語で日常会話しているように、英語圏の小学生は英語で日常会話をしているのに過ぎないのである。しかし、知的な会話となると話は別である。日本語であれ、英語であれ、論理的思考力なくしては知的な会話はできない。あほではできないのである。

   これからのグローバル社会では英語が話せることが重要とかで、大学入試に英語4技能が取り入れられようとしている。(とりあえずは頓挫したが、やがてほとぼりが冷めれば、またむくむくと頭をもたげてくるだろう。)英語をしゃべれるようにというなら、英語圏に住めば誰でもしゃべれるようになる。ただし、上記の婆さん化した爺さんの程度であるが。

大学入試に英語が必須項目とされているのは、大学で英語の日常会話をするためではない。大学での真理の研究には、英文の海外学術文献が読めることが必要だからである。大学入試に英語4技能を求めるのがそもそもの筋違いなのである。

   また、最近、インドやフィリピン等他のアジア諸国の人たちに比べて、日本人が中高大と何年も英語を勉強しながら英語がしゃべれないことを恥であるかのごとき論調が日本中を席捲しているが、我々日本人が日本で生活するのには英語が必要ないからしゃべれないだけなのである。英語をしゃべる必要がなく生活ができるのは、恥であるどころか、恵まれていることの証左なのである。(インドにせよ、香港にせよ、フィリピンにせよ、英語を流暢にしゃべることのできる国は、米英の植民地化という不幸な過去をかかえているのであって、日本は戦後一時的に連合国の占領下にはあったものの、幸いにも米英の植民地になることはなく、英語の公用語化を避けることができた幸運な国なのである。)

 これに関していえば、近年、文科省の指示で、中高の各学校にALTというネイティブ英語を話す外国人補助教員が派遣されるようになっているが、筆者はこれらALTの知的水準については疑いをもっている。欧米人が自分の仕事を求めるのはどこよりも欧米内であって、よほどの物好きでもなければ好き好んでユーラシア大陸の極東のさらに東の島国である日本まで来ることはないであろう。ましてや日本の中でも東京ならまだしも、香川の片田舎まで来るはずがない。職にあぶれた欧米人が、日本人の白人コンプレックスを良いことに、飯のタネにしているだけなのではないか。ネイティブといっても、所詮は日常会話しか教えることのできない知的レベルの人たちかも知れない。日本でいえばFラン大学卒程度の、あるいはそもそも大学を出たかすら怪しい人たちから、ネイティブだからということだけで後生大事に有難がって英会話を「教わって」いるのかも知れないのである。

2019.11.13