国公立大学の推薦入試って、誰のため?

  現在の大学入試には、私立大学はもちろん国公立大学においても一般入試と推薦入試(AO入試を含む。)がある。筆者が大学入試を受けた40数年前には私立大学には推薦入試もあったと思うが、少なくとも国公立大学には推薦入試などというものはなかった。高校3年間の勉強の成果が、11回限り(1期校と2期校の両方を受ける場合は2回)の今でいう一般入試で測られていたのである。

  国民の税金で運営される国公立大学の入試には、何より公平性が求められる。領土は狭く資源も少ない我が国が、戦後の荒廃から立ち上がり世界の先進諸国と伍して来ることができた大きな要因は、親の貧富にかかわらずすべての子供が教育を受ける機会を平等に与えられていたことで、出身に関わらず優秀な人材が育ち、卒業後は彼らが官民を問わずそれぞれの場所で活躍し、国を引っ張ってきたからである。現実には金持ちの親をもつ子供は、お金の力で有名私立大学に進むこともあったであろうが、少なくとも国公立大学の入試においては、入学試験の成績だけで合否が決定されるという公平性が担保されていたのである。貧しい家庭に生まれ育った子供でも、勉強を頑張って国公立大学を卒業できれば将来より良い生活を送るための道を切り開くことができるという、いわば「学歴民主主義」とでもいうべきものが制度的に保障されていたからこそ、我が国が先進国の仲間入りができたのである。貧しい農家のしかも分家の次男坊に生まれ、普通なら地元の高校を卒業した後は口減らしのために京阪神の工場の工員等に放り出されたであろう筆者が、これまでのところ人並み以上の生活が送れてきたのも、東大卒という学歴のお陰であることは疑いない。

  ところが、いつの頃からか国公立大学においても推薦入試の制度が導入され、現在では合格者のうち国立大学の16%、公立大学の26%が推薦合格である(2014年入試)。

 推薦入試の場合、たいてい高校からの内申書に小論文と面接で行われ、学力試験が課されることはほとんどない。その導入の表向きの理由は、学力試験の一発勝負では測り切れない受験生の総合的能力を多面的にみるということであろうが、筆者の疑念は、元々訳のわからない高校の内申評価を基礎に、このような試験官の主観(悪く言えば、恣意)に左右されやすい制度を私立大学だけでなく国公立大学にまで導入した理由は本当にそれだけだろうかということである。

 筆者の杞憂であればいいのだが、政治家、高級官僚、大学関係者、マスコミ、大企業経営者等我が国の支配的階層に属する特定の人達の子弟を優先的に国公立大学に入学させるために推薦入試の制度が導入された(あるいはそのように運用されている)ということはないのであろうか。かりそめにもそのようなことはあってはならないことなのだが、日々受験生たちが一般入試での合格を目標にけなげに頑張っているのを見ていると、一方で学力試験も受けることなく国公立大学入学を認められる生徒が存在することに何とも言えない違和感を感じ、たまにはそんな疑念も湧いてくるのである。筆者が、この制度を「正規の裏口入学」と呼ぶ所以である。

   もちろんどんな制度にも一長一短はあるものであって、完全な制度というはありえないのであるが、しかし税金で運営されるものは最低限公平なのもでなければならない。

 いっその事、このような公平性に疑問のある推薦入試の制度は廃止して一般入試一本にしてもらい、その大学を目指すすべての受験生が同じ試験問題を相手に公平に競う昔の制度に戻してもらいたいと思う。しかし、実際は、国公立大学医学部医学科をはじめ、昨年からは東大でも推薦入試の制度が導入されるなど、国公立大学の推薦入試は拡大されてきている(これに加えて、国公立大学医学部医学科入試には「地域枠」という明らかに公平性に疑問のある制度が導入されている。受験生なら誰でもが夢見る国公立大学医学部医学科の入試に、推薦入試×地域枠という怪しさこれ以上ない制度が堂々と導入されているのは、逆に見事としかいいようがない。)

 我が国を先進国に押し上げた大きな要因である「学歴民主主義」の最後の砦が崩壊の過程に入ってきているのではないか。残念でならない。

 裏口も 決めてしまえば 正門に

 2016.1219